暫定龍吟録

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反貧困のシンポジウムに行って犠牲の累進性について考えた

 ちょっと前の話になるが、2010年9月19日、反貧困ネットワーク主催のシンポジウムに行ってきた。

 テーマは、

「どっちが深刻?! 日本の貧困 世界の貧困 ~犠牲の累進性を超えられるか~」

といふもの。
 パネリストは、

雨宮処凛(作家・活動家)
稲場雅紀(「動く→動かす」事務局長)
村田俊一(UNDP国連開発計画駐日代表)
湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)
吉岡逸夫(ジャーナリスト)

の5人。

 会場の築地本願寺に着いたら、入り口のところで事務局長の湯浅誠が一人で案内の旗の設営をしてゐる。そんなことはもっと下っ端の者がやることだらうと思ったのだが、湯浅誠ならさもあらんと思った。

 会場内には100名以上の客が集まってゐて、男7割、女3割ぐらゐか。意外と若い人よりも中年以上の人が多い感じがした。

 シンポジウムのテーマはタイトル通り、日本の貧困と世界の貧困がテーマだったのだが、5人のパネリストの関心事が明らかに分かれてゐるやうに見受けられた。
 稲場雅紀はアフリカのエイズ問題の専門家、村田俊一は国連開発計画の人で、吉岡逸夫は青年海外協力隊として世界中を飛び回った人。よって、この3人はやはり世界の貧困問題に関心があるやうだった。
 かたや、湯浅誠と雨宮処凛の2人は、日本の現在の貧困問題に関心があるやうで、議論は噛み合ってゐない。といふより、議論らしい議論はなく、5人それぞれが自分の関心事について語った、といふ感じのシンポだった。
 また、話が噛み合はないのは、世代の問題もあると感じた。年配のパネリストは「うちらが子どもの頃の日本は貧しかった」といふところから話を始める。今の50代以上の世代の人にとっては、子どもの頃は貧しかったけれど自分の成長と共に日本は豊かになった、といふ実感があるだらう。だが雨宮の世代の人間にとってはまったく逆で、自分が生まれた頃の日本は世界第二位の先進国で物質的にも非常に豊かだったが、自分の成長と共に日本はどんどん貧しくなっていったと感じてゐるだらう。世代によって、豊かさや貧しさに対する原体験が全然違ふのだ。だから「豊か」とは何か、「貧しい」とはどういふことか、といふことに対する捉へ方に大きな相違があるのではないか。

 今回、私がこのシンポジウムに出かけたのは、湯浅誠の話を聞きたかったのと、雨宮処凛が提出した「犠牲の累進性」といふ考へ方に興味があったからだ。
 「犠牲の累進性を超えられるか」といふのは今回のシンポのサブタイトルにも掲げられてゐたのだが、残念ながらあまりそっちの話にはならなかった。雨宮が司会役に徹してゐたので、あまり発言できなかったのだ。雨宮はこの5人のメンバーの中でも一番若いんだし、強引に自分の話に持っていくかと期待してゐたのだが、彼女はその奇抜なファッションに反して、他の大先輩のパネリストたちに敬意を払ってゐるやうだった。過去に石原慎太郎と対談したときも言ひたいことを言ひ返せなかったと語ってゐた。

 犠牲の累進性とは何か。
 パンフレットからそのまゝ引用する。

「お前の置かれた状況などは、ほかのもっと貧しい人や大変な人に比べたらなんでもない」というような言い分で問題から目を逸らさせ、我慢を強いるやり口、雰囲気。例えば正社員の長時間労働より非正規の低賃金の方が、非正規の不安定労働よりもホームレスの過酷な生活の方が、日本のホームレスよりも第三世界のスラムの貧民の方がより貧しくて大変なんだ、という形で現在その人が向き合っている困難を呑ませようとするやり口。(雨宮処凛)


 私もこのやうな言ひ方に昔から違和感を感じてゐた。上を見ればキリがないのと同じやうに下を見ればキリがない。
 私もいろんな人から何度となく言はれた。「あなたより辛い状況の人もゐるんだから、それに比べたらマシだと思はなくちゃ」と。
 これには精神安定の意味があるやうだ。本当に辛くて辛くて心が苦しいときに「自分はあの人よりもマシだ」と考へることで一時的な心の安穏が得られる。少しホッとして楽な気持ちになれるのだ。だから、かういふ物言ひをする人は「かういふ考へ方をすることで、少しでもあなたの心の苦しみが和らげば」といふ善意から発言してゐる場合も多々あるといふことだ。

 だがやはり、かうした言ひ方には違和感を覚えざるをえない。人間、上には上がゐるが、下には下がゐる。自分が世界最低とか最悪の状況といふのはありえないわけで、どんな人でも自分より下の状況にゐる人を見つけることができる。

 例へば、早朝から深夜まで苛酷に働かされて、毎日の睡眠時間が4時間ほどしかないAさんがゐたとしよう。しかし世の中を探せば、毎日の睡眠時間が2時間ほどしか取れない激務なBさんもゐる。Bさんに比べたら2時間も余計に眠れてゐるのだからマシではないか、といふ言ひ方が成り立つ。
 しかし、かうした言ひ方を許してしまふと、Aさんが置かれてゐる悪環境をそのまゝ認めてしまふことになる。常識的に考へて、毎日早朝8時から深夜1時まで働かされてゐたら、明らかにオーバーワークである。過労死があってもをかしくないレベルである。「死にゃあしない」と言ふ人がよくゐるけれども、たしかに人間はさう簡単に死なないし、頑張れば意外と持ち堪へるものである。だけど「死」を引き合ひに出すのはをかしいのであって、万が一でも死んだら大問題である。人間が死なないギリギリのところで生きてゐるからといって、このやうな非人間的な労働環境で働かされることが許されてよいはずがない。

 「ニートの海外就職日記」の海外ニート氏も、たびたび述べてゐることだが、このやうな考へ方は企業の経営者層に都合よく使はれる。昔、家康が「生かさず殺さず」と言ったとかいふ話を聞いたことがあるが、経営者がまさに、「死なない程度に、それでゐて、できるだけたくさん働かせる」のには好都合である。しかも、日本の場合は、それを「社畜(by海外ニート氏)」の人たちが自ら「自分だけ楽してる奴は許せない」「お前も俺と同じぐらゐ苦労しろ」などと足の引っ張り合ひをしてゐるので、経営者にはますます好都合といふことになる。

 より悪い環境の方を引き合ひに出して、「これに比べたらお前はまだ楽をしてる」とか「まだ苦労が足りない」などと言ふのは、まるで悪環境を志向してゐるかのやうだ。

 私は大都会育ちで、幼いころ、「都会は空気が汚い」と親に文句を言ったことがある。それに対して親は「この大都会東京の汚い空気で育ったんなら、世界中のどこでも生きていくことができる」と言った。より悪い環境で育った子の方がたくましく育つ、といふわけだ。
 かうした言ひを、前向きでポジティブな考へ方だ、と褒める人もゐるだらう。だが私はさうは思へない。この親の論理を認めてしまふなら、たくましくて強い子を育てるために、大気はもっと汚染された方がよいといふことになる。東京だけではなく、世界中のあらゆる都市で、もっともっと大気汚染をひどくするべきである。

 親は別に「大気汚染をもっとひどくするべき」などとは考へてゐなかったらう。たゞ、都会に生まれてしまったこの現状はしやうがないし、どうすることもできないのだから、せめてポジティブシンキングで考へた方が人生うまくいくよ!といふ程度のことを言ひたかったのだらう。

 だがしかし、私はまさにこの「現状や環境はどうすることもできない」といふ考へ方が、「社畜」たちが(非人間的な労働環境に対して)「こんなの社会の常識ですよ」と現状肯定をしてしまふ言ひ方とよく似てゐると思ふのである。

 なぜ、「環境や現状を変へることは難しい」と考へるのか。
 「社会のせゐにしないで、先づは自分が変はらなきゃ」といふ言ひ方もいろんな人からたくさん聞くけれども、それもやはり社会の悪環境を放ったらかしにしてる、あるいは無視してる無責任な発言としか思へない。

 どこまでが「人間的」でどこからが「非人間的」かなんて線引きはもちろんできないけれども、先進国には先進国の、後進国には後進国の悪環境がある。そしてその悪環境は改善を目指さなければならない。「世界はかういふものです。現実を知って下さい。良い社会勉強になりましたね」などと悪環境を是認してはならない。

 年配者の多くは今でも「さうは言ってもやっぱり日本の若者が貧しいとは思へない。後進国の若者に比べたら明らかにずっと豊かで恵まれてゐるだらう」と思ってるやうだ。あるいは自分たちの子どもの頃(戦中、戦後間もない頃)の貧しさと比較するから、やはり現代の若者が貧しいといふのがどうしても理解できないのかもしれない。
 しかしそれは先にも言ったやうに、「豊かさ」や「貧しい」といった言葉の意味を解ってゐないだけである。

 「もっとひどい境遇にゐる人を見なさい、それよりはマシでせう」と言はれれば、どんな困難に向き合ってゐる人も黙ってしまはざるをえない。しかしそれはたゞ、現今の問題から目を逸らさせてゐるだけである。そんな言ひ方はせずに、私たちは現状をより良くする方向に動くべきである。
 東京の空気をきれいにすることは不可能なことではない。