暫定龍吟録

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東北地方太平洋沖地震3日目(2011年3月13日)

 今朝起きて、Yahoo Japanのトップページを見たら、「1万人不明の町」などという信じがたい文字が飛び込んできた。

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 被害の規模が私が当初、予想していたものを遙かに上回っている。歴史に残る大地震になるとは直感していたが、ここまでとは思っていなかった。

 「〇〇大震災」と呼ばれるようになるだろうと一昨日書いたが、今朝のテレビを付けてみるとNHKは「東北関東大震災」、民放は「東日本大地震」と呼んでいるところが多かった。

 一日遅れの内容になるが、昨日の私の行動を書き留めておこう。

・3月12日土曜日(地震から2日目)の私の行動と考えていたこと

 昨日はほとんどテレビはつけなかった。テレビで悲惨なニュースを見聞きするのが精神的に辛かったし、節電が呼びかけられていたからだ。たまたま部屋の蛍光灯が切れたので買いに行こうと思い、午前11時頃、地震後初めてまともに出かけた。

 コンビニに行ったら、牛乳が目に飛び込んできて「なんだいつも通りじゃないか」と思った直後にこの光景が入ってきた。いつもなら手前が食料棚で、奥が弁当やおにぎりを売ってる棚である。

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 ご覧のとおり、がらん堂。

 こちらは菓子パン棚だが、こちらもガラ空き。

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 食料以外の日用品みたいなのは普通に売ってた。飲み物類は普段の半分くらい。カップ麺の類が普段の4分の1くらい残っていた。
 買い溜めはしない。私がたくさん買ってしまったら、私よりも後に来た人が食べるものがなくて困るだろう。私は蛍光灯と石鹸を買いに来たのだ(ちょうど切らしたから)。

 午後もすることがなくて、ネットを少し見たりする以外は考え事をしていた。
 この大災害のさなかに私が考えていたのはパンダのことだ。
 パンダ?東北の人たちがこれだけ甚大な被害に遭っているというのに、私はいったい何を言っているのだ。
 ほとんどの人には興味のないことだろうが、地元ではもうだいぶ前からパンダが来るという話題で盛り上がっていた。リーリーとシンシンは故郷の四川でも大地震に遭い、そして日本に来て早々また大地震に遭い、ずいぶん災難だったなあ、そんなことをぼんやり考えていた。
 あと考えていたのは、前に亡くなったおばあちゃんのこと、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』中の一節「僕はもう、あのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまわない」という言葉を思い出していた。

 3月12日(地震2日目)に体に感じた余震は、1時間に2、3回かそれ以上の頻度であったような気がする。


・3月13日日曜日(地震から3日目)の私の行動と考えていたこと

 正直言って、私は、死者行方不明者が1万人を超えるなんてことは昔の日本、あるいは現代だったら発展途上国でしか起こらないと思っていた。現代の先進国ではそんなことは起こらない、東京直下型地震が起きたとしても1万を超えることはないだろうと思っていた。

 三陸の海岸沿いは、昔から何度も大きな津波に襲われてきた。
 1896(明治二十九)年の「三陸地震津波」。
 1933(昭和八)年の「三陸沖地震」。
 1960(昭和三十五)年の「チリ地震津波」。
 津波に対する言い伝えや教訓もあり、津波への世界最高レベルの備えがあったことだろう。
 しかし今回は役に立たなかった。過去に類の無い、想定を遙かに上回る規模だったから。
 人間は、滅多に起こらないことには備えることはできないものだ。

 マグニチュードは今日の午後になって9.0に修正された。日本の歴史上最大の地震だ。世界レベルでも稀有な大地震。
 
 今日もほとんどテレビは見ない。

 今日も正午ごろ、コンビニまで買い物に出かけたが、昨日とほとんど同じで食料は売ってなかった。「松屋」が通常通り営業していたのでそこで食事。
 帰り道の途中、昼間っから酒を飲んでるホームレスらしきおじさん6人組がワイワイ賑やかにしている脇を通ったら、その中の一人から声をかけられた。

 酔「お兄ちゃん、踊ろうか?」(阿波踊りの真似をしながら)
 私「・・・」
 酔「兄ちゃん、今日休み?」
 私「今日、日曜日ですよね」
 酔「そう、休みなんだ。一緒に酒飲んでく?」
 私(苦笑)

 よっぽど私が暗い顔をしていたのだろう。酔っぱらいのおっちゃん、ありがとう。なんだか少しだけ気が晴れた気がするよ。

 家に帰ってからは、読書したり少しだけネットを見たりして過ごす。
 今日3月13日に体に感じた地震は12回くらい。(朝8時から午後9時半まで)。ただし2時間ほど外に出ていた間は気づいてない。午後のほうが少ない。

 地震時の津波の様子を伝えるテレビやYouTubeの動画がぞくぞくと集まってきているが、まるで映画の中のフィクションの世界のよう。

 赤木智弘は「希望は戦争」と言っていた。戦争ではなかったが、天地がひっくり返るほどの大災害が起こった。
 だが今日、TwitterのTLで、ある人が、東京の会社の人に電話をしたら地震の話もそこそこに「ところで先日の〇〇の件ですが」と仕事の話が始まった、とツイートしていた。
 私が恐れていたのはこれだ。明日から月曜日。三陸地方の人は別として、東京ではまるで何事もなかったかのように普通にいつもの仕事が始まるのだろう。
 戦争が起ころうが、未曾有の大地震が起ころうが、天地はひっくり返らないのだ。ただ生き残った者の心と体に大きな傷跡を残すだけ。
 多くの日本人が整然と冷静に普段どおりの仕事を淡々とこなす姿に敬意を感じる一方で、被災地への支援や東京でのライフラインに関わる仕事以外の仕事ならこんな時ぐらい休んでいいんじゃないか、どんだけ仕事好きなんだよ日本人、という思いがある。
 赤木の、日常を壊したいという願いの前に、戦争や大地震は徒花となり、赤木は結局さらに苛酷な「日常」を見せつけられることになるだろう。
 この国では暴動も騒乱も起きない。規律は規律。ルールはルール。仕事は仕事。これが地震ではなく戦争であったとしても同じことだ。革命も下克上も起きない。

 慟哭すべきときは声をあげて泣き、非常、非日常が訪れたときはそれもまた受けとめる。もっとそういう在り方でもいいのではないか。