暫定龍吟録

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佐久間象山と地震と国防 -佐久間象山生誕200年-

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 2011年3月11日に東北地方太平洋沖で巨大地震が発生してから今日で11日が経つ。

 救助活動、原発の問題、避難生活等、今でも災害は現在進行中である。


・1995年と2011年の空気感

 人生の中で今回の大震災、大災害ほど「国難」を思はされたことはなかった。
 1995(平成7)年にも似たやうなことは感じた。あの時は1月に関西で「阪神淡路大震災」が、3月に東京で「地下鉄サリン事件」が起きた。あの時の雰囲気に似てゐる。あの時もあはや国家が転覆するのではないかといふ危機感を感じた。そしてあの時と「空気感」も似てゐる。1995年はサリンといふ目に見えない恐怖があった。その前年の夏には、暑いから窓を開けて寝てゐただけの人が亡くなってしまふといふ「松本サリン事件」が起きてゐた。日本中の人が、窓を開けて深呼吸をするのさへ心配してしまふやうな、そんな恐怖感に包まれてゐた。
 今回は、あの1995年の時の地震とサリン事件が同時に同じ地域で起こったやうなものだ。しかもスケールアップして。今回はサリンのかはりに放射能といふやはり目に見えない恐怖が人々を包んだ。東京でさへ、窓を開けてのびのびと深呼吸をするのが躊躇はれる空気感を感じる。福島県に住んでる人はもっと感じてゐるだらう。

 私はなんとなく、自分はある程度完成した成熟した社会に生まれてきたのだと思ってゐた。自分が生きてゐる間にはそんなに大きな出来事は起こらないだらう、と。「国難」などといふ言葉は知らなかった、と言ってもいいぐらゐだった。しかし、日本の歴史を振り返れば、さうした「国難」はたびたびあった。江戸時代末期の「安政期」(1854-1859)もその名とは裏腹に、国が亡びるかもしれないといふぐらゐの国難の時代だった。その安政期を生きた一人の思想家、今日からちゃうど200年前に生まれた佐久間象山がどのやうに「"超"国難」に向かひ合ひ、「国防」あるいは「国を守る」といふことをどのやうに考へてゐたのかを象山と地震との関はりを見ながら少し考へてみたい。
 

・安政年間と地震

 安政年間7年間は、ほゞ地震とともにあったと言っても過言ではない。「安政の大地震」が有名だが、その他にも大小の地震がたくさんあった。

 安政元年6月15日 安政伊賀地震
 安政元年11月4日 安政東海地震
 安政元年11月5日 安政南海地震
 安政元年11月7日 安政豊予地震
 安政2年10月2日 安政江戸地震
 安政5年2月26日 安政飛越地震
 
 規模が大きかったものだけでもこれだけある。このうち安政2年の「江戸地震」が「安政の大地震」と呼ばれるが、「東海地震」と「南海地震」は規模から言へば江戸地震を上回るマグニチュード8.4の巨大地震だった。


・佐久間象山と地震

 幕末の先覚者、また吉田松陰の師としても知られる佐久間象山だが、地震とは少なからぬ関はりがある。

 その著書『省ケン録』にも地震について触れてゐる箇所がある。(ケンは漢字出ない。↓写真に撮ってみたが低解像度でよく見えない。)
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聞く、關西の地震は、勢賀の間、更に甚しく、城垣衙署、驛亭民屋、傾塌すること算なく、樹木倒植し、井水乾涸し、人民の壓死すること、殆んどその數を知らずと。丁未に信州の地大に震ひしとき、予れ里に在りて、親しくその變を閲せしが、慘毒の劇しきこと、言ふに忍びざるところなりき。信中の變後には、地下毎に雷聲を作し、時にまた搖撼し、久しきを經て止まず、後七年にして小田原の變あり、又一年にして今復た關西の變あり。嘗て人の雜書の載するところを記するに云ふ、その地常に動き、數年の後に至りて大震あり、萬家の樂土、忽ち蠶叢に變ずと。然らば則ち、地震には固より數年に連なるものあり。古來漢儒は地震を以て蠻夷が侵陵するの兆となせり。占候の説は洋學の取らざるところなれども、天人合應の理は、必ずしもこれなしと謂ふべからず。丁未以來の地震の變をば、時事を以てこれを驗するに、漢儒の言は、誣ふべからざるに似たり。今、夷虜の志は未だその極まるところを知らざれば、則ち震の相連なりて、尚ほ劇甚なるものあらんことも、また慮ることなき能はず。
(原頭註)關西の地震は六月十四日にあり、而して獄中に之を傳ふるは二十四五日の間にあり。季秋に放還せられし後、この録を次第せしが、十一月四日に至りて、東海道の地、又大に震ひ、城郭を隳り、廬舍を壞り、死傷算なかりき。因りて竊に書して、江都の所親に寄せ、告ぐるに此の條の大意を以てし、都下も恐らくは亦た免かれざらんと謂ひて、之をして戒備するところあらしめき。明年十月二日の夜、江都に果して大震ありて、火もまた之に從ひ、その餘烈はこれを前の數災に比するに、超過すること數倍なり。而して予がもと親交する所のもの、多くは保全を得たるは、これ天意なりといへども、また小しく予が言に資ることなくんばあらず。乙卯の冬誌す。


 以下、大意。

聞くところによれば、関西の地震は、三重県のあたりで特に被害がひどく、建物は数限りなく倒れ、樹木も倒れ、井戸水は涸れ、圧死した人々も数知れない。弘化4年(1847年)に信州の大地震(善光寺大地震)があったとき、私は故郷の長野県松代町に居て地震を経験したが、その被害の甚だしさは言葉にできない。善光寺大地震の後、地下は常に轟き、時にまた揺れ、それがしばらく続いた。その7年後に小田原で地震があり、そのまた1年後に関西の地震があった。昔の中国の書物には「大地が常に動き、数年後に大地震があった。すべての土地が荒地になってしまった」と書いてある。と言うことは、地震は数年にわたって続くものなのだ。昔から儒学者は地震は外国が攻めて来る予兆だとした。自然現象と社会がまったく関係ないということはないだらう。善光寺大地震以来の地震と昨今の社会情勢を合はせて考へてみると、儒学者の言ってゐることはまんざら嘘でもないだらう。今、西洋列強の侵略の意志が強いから、激甚の地震が続いてゐると考へることもできよう。
(原注)関西の地震は6月14日にあった。そしてその知らせは24、5日で獄中にゐる私のところへ届いた。秋に獄中から釈放された後、この記録を書いてゐたら、11月4日に東海道で大地震があり、城郭も小屋も壊れて死傷者数は数限りなかった。そこで私は密かにこのことを書いて、江戸の知人たちに送った。この文章の大意を書いて、江戸もおそらく災害を免れられないだらうから警戒するやうにと言ったのだ。翌年(安政2年)10月2日の夜、江戸で大地震があり、火事も起こり、その被害は前の震災の数倍はあった。それで私の親しくしてゐた知人の多くは無事だったのだが、これは天災といっても、やはり私の言葉を聞いてゐたおかげだらう。安政2年の冬、記す。



 文中に出てくる「関西の地震」とは、安政元年(1854年)6月15日に起きた「安政伊賀地震」(三重、奈良県で被害がひどかった)、「十一月四日に至りて、東海道の地、又大に震ひ」とは、「安政東海地震」、そして「十月二日の夜、江都に果して大震あり」とは、安政2年の「安政江戸地震」のことを指してゐると思はれる。
 そして、象山はなにより、その数年前に地元の長野県松代で「善光寺大地震」を経験してゐたのだ。「善光寺地震」とは、弘化4年(1847年)の3月24日に起こったマグニチュード7.4の地震で『理科年表』によれば、「松代領で潰家9550,死2695,全国からの善光寺の参詣者7千~8千のうち、生き残ったもの約1割という」大地震だった。
 象山は、この善光寺大地震のときに活躍があったおかげで藩主から表彰されたらしいが、どのやうな活躍をしたのかはよく分からない。また、安政江戸地震をきっかけにして、「地震予知器」を自ら発明した。上の記述と合はせ考へても、地震に対する並々ならぬ関心があったことが窺へる。

 象山がゐた場所と地震との関係がわかりにくいだらうと思ふので、もう一度年表にしてみよう。

弘化4(1847)年37歳3月、地元、長野県松代で善光寺大地震に遭ふ。
嘉永6(1853)年43歳6月、浦賀にペリー黒船来航。
安政元(1854)年44歳1月、江戸湾にペリー再来。
4月、日米和親条約締結。
弟子の吉田松陰の密航事件に連座して江戸の獄中に入る。
6月、伊賀地震(関西の地震)が起きる。
この間、獄中で『省ケン録』を書き綴る。
9月、蟄居を命じられ、江戸の獄中を出て、長野松代に帰る。
秋、『省ケン録』をまとめる。
11月、安政東南海地震が起きる。
安政2(1855)年45歳10月、安政江戸地震が起きる。
冬、『省ケン録』の注釈を記す。
安政4(1857)年47歳10月、ハリス来日。
安政5(1858)年48歳2月、飛越地震が起きる。
6月、日米修好通商条約締結。
井伊直弼による安政の大獄が始まる。
コレラ流行。
安政6(1859)年49歳7月、吉田松陰の死刑が執行される。
安政7(1860)年50歳3月、桜田門外の変が起きる。


(参考:佐久間象山と日本の歴史

 主だったものだけ書き出してみたが、かうして見てみると、いかにこの時代が「激震」の時代だったかが分かる。黒船と地震のWショック。それもアメリカの船だけではない。オランダ、ロシア、フランス、イギリスといろんな国の船が次から次へとやって来て開国を要求し、歴史的大地震が次々と立て続けに起きた。国政のことなど知らない田舎の一般庶民ならともかく、当時一級の知識人であった佐久間象山は、このまゝだと日本は終はってしまふかもしれない、といふ強い危機感を抱いただらう。


・安政江戸地震と藤田東湖の死

 上の『省ケン録』文中では、自分のおかげで江戸の知人たちが助かったやうに書いてゐる象山だが、実は江戸地震のとき、一人の親交のあった人物を亡くしてゐる。象山とほゞ同世代の水戸の儒学者、藤田東湖である。

 藤田東湖もまた、当時一級の人物であり、水戸学を代表する学者であった。そして象山と同時代を生きた東湖も、この黒船、地震のWショックに加へ、コレラの大流行や倒幕派による幕藩体制の危機など「"超"国難」とも言ふべき時代にあって、「天下の形勢油売の地獄に入候如く」(豊田天功宛書簡)と歎息した。
 実際、これだけ大災難が続けば、東湖のやうな第一級の人物と言へども、いや政情や社会情勢に詳しければこそ「もうどうしようもない」「もう日本はダメかもしれないね」と本気で感じてゐたかもしれない。

 安政2年10月2日夜、江戸の街を突然の大地震が襲った。江戸小石川藩邸にゐた藤田東湖は、家族といったん庭に避難したが、母親が家の中に戻ったので母親を助けようとして再び家の中に飛び込んで行った。その時、梁(鴨居)が上から落ちて来て、東湖は咄嗟にありったけの力で母親を外へ押し出し、自分は梁の下敷きになって圧死した。

 私は、藤田東湖は、思想は別としてその最期は立派であったと思ふ。死ぬのが立派だと言ふのではない。口先だけの他の儒学者と違って「親に孝」を人生最後の瞬間に実践で示したからだ。親に先立つのが孝かどうかはわからないが、理論だけの学者でなかったことは確かだ。

 東湖の死を知った佐久間象山は、「疇昔を俯仰すれば昨日の事の如し。而るに東湖は復た見ゆ可からず。因て大息流涕す」(昔を思ひ出せばまるで昨日のことのやうだ。だが東湖にはもう会へない。私は大いに涙する)と言って、同世代の知友を失った悲しみを歎いた。

 今も東京ドーム隣の道路に「藤田東湖護母到命の処」といふ案内板が建ってゐる。


・佐久間象山の危機意識の高さと責任感

 佐久間象山は「国防」といふ言葉は使ってゐないが「海防」がそれに当たる。ペリー黒船ショックの10年以上も前に「海防八策」を書き著し、象山には国防の第一人者であるといふ自負があった。それは根拠のない自信ではなく、深い洋学、語学、科学の知識に裏打ちされてゐた。
 象山の海防論などは今読んでも、当時の多くの尊皇攘夷論者たちの意気込みだけの精神論に比べれば、はるかに冷静で論理的で科学的であったと思ふ。

 「私は貧乏だけれど穏やかな時代に生まれ育って今まで苦難を知らなかったが、国家の緊急事態のことは常に心配してゐた(『省ケン録』)」といふ言葉は、決して大言でも自慢でもなく、洋書を貪り読み、西洋事情に精通してゐた象山ならではの危機意識の高さが顕れてゐる言葉だと思ふ。
 その、時に尊大とも思へる発言が「自信家過ぎる」と見られがちな象山だが、むしろその大言は強い責任感の表れと見るべきだらう。黒船来航で江戸が戒厳状態にあったときも「精神はますます奮ひぬ」と言ってゐたぐらゐだから、この人は弱気になるどころか最後まで逃げる気はなかったのだらう。


・現代と佐久間象山
 
 私も貧乏だけれども、戦争も安保闘争も知らない時代に生まれ育った。そして、この度の大震災と原発事故で、初めて「国難」を思った。私が佐久間象山から学んだのは、その危機意識の高さと強い責任感だった。大震災の後、改めて象山の主著『省ケン録』を読み、随所に不退転の覚悟が現れてゐるのを知った。「不退転」といふのは必ずしも「死ぬのを潔し」とする考へ方ではない。象山の思想は極めて論理的で科学的で、むしろ徒に死なないための思想であった。
 この「国難」に際して、そして生誕200年にあたって、象山の思想や生き方のさうした良い面がかへりみられたならよいと思ってゐる。


 佐久間象山と海防の問題については以前にも書いたので参照されたい。

 日本の海防と情報 sengoku38と佐久間象山(2010/11/16)