暫定龍吟録

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869年貞観地震とはどんな地震だったのか

・「流光、昼のごとく隠映す」

 2011年3月11日に起きた巨大地震は、869(貞観11)年の「貞観地震」との共通性が指摘されてゐる。

福島第1原発:東電「貞観地震」の解析軽視 - 毎日jp(毎日新聞)

多くの専門家は、東日本大震災を「貞観地震の再来」とみている。同研究所などは05年以降、貞観地震の津波による堆積(たいせき)物を調査。同原発の約7キロ北の福島県浪江町で現在の海岸線から約1.5キロの浸水の痕跡があったほか、過去450~800年程度の間隔で同規模の津波が起きた可能性が浮かんだ。


 9世紀と言へば、平安時代初期にあたり、『枕草子』や『源氏物語』が書かれるよりも1世紀以上前である。
 「貞観」とはどんな時代だったかと言へば、いはゆる「弘仁・貞観文化」が花開き、漢文学や密教が流行した時代である。また、866(貞観8)年には、藤原氏が伴氏、紀氏を没落させた「応天門の変」が起こってゐる。

 そんな時代に三陸地方を襲った巨大地震とはどのやうな地震だったのか。手元の『理科年表』で調べてみた。

869 7 13 (貞観11 5 26) M8.3
 三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数. 津波が多賀城下を襲い, 溺死約1千. 流光昼のごとく隠映すという. 三陸沖の巨大地震とみられる.



 869年の旧暦5月26日に起きた三陸沖のマグニチュード8.3の巨大地震だったやうだ。この『理科年表』はおそらく歴史書を参考にして書いてゐる。こんなに古い時代の地震の被害の状況がわかるのは、歴史書に書かれてゐるからだ。その歴史書とは『日本三代実録』である。六国史の第六。"三大"実録ではなく、"三代"実録、すなはち、清和、陽成、光孝天皇の三代、858年から887年までの出来事を記した歴史書である。
 その『日本三代実録』の中に次のやうな記述がある。

廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民(叫)呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城(郭)倉庫。門櫓墻壁。頽落顛覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。

 要約すると、

貞観11年5月26日、陸奥国(東北地方)で大地震があった。流光、昼のごとく隠映する。しばらく人々は泣き叫び、倒れて立つこともできなかった。ある者は家屋が倒壊して圧死し、ある者は裂けた地面に埋もれた。牛馬は驚いて走り出し、あるいは足場を失った。建物の倒壊は数知れず。海は吠え、雷のやうだった。長大な驚くべき波が湧き起こり、たちまち城下に至った。海から数十百里離れたところまで、そのはてが分からないほど広大な範囲が波に襲われた。原野も道路もまったく分からなくなった。船に乗って逃げる暇もなく、山に逃げるのも難しかった。溺死者は1000人ばかり。資産も苗もほとんど何一つ残らなかった。



 「馬牛」が「自動車」になったぐらゐで、今回2011年3月11日の巨大地震と様子はよく似てゐる。溺死者が1000人と今回の被害より小さいやうだが、これは当時は今のやうに情報網が発達してゐないから、遠い陸奥国の正確な死者数はよくわからないだらうといふことと、当時は日本全体の人口数も少なかったので、三陸地方にもそれほどたくさん人が住んでゐたわけではなかった、といふことを考慮する必要がある。津波の大きさを物語る記述から見れば、今回の地震に匹敵する巨大地震であったとも考へられる。
 この中で「流光、昼のごとく隠映す」といふところだけがよくわからない。流れる光が夜空を昼のごとく照らした、といふ異常現象を書いてゐるやうだが、どんな物理現象だったのか、この記述だけからではよくわからない。


・多賀城に押し寄せた波は末の松山を越えたのか

 これは、TwitterのTLを見てゐて、@glasscatfish氏や@87a_wtnb氏のツヰートから教へてもらったのだが、百人一首にある清原元輔の有名な歌、

契りきな かたみに袖をしぼりつつ すゑの松山 波こさじとは

の、「すゑの松山」とは、宮城県多賀城市にある場所を指してゐる、といふことだ。

 清原元輔(908-990)は、あの清少納言の父で、この歌の意味は、「あの末の松山を波が越えることがないのと同じやうに、私たちが心変はりすることも絶対ないと約束したよね」といったほどの意味だ。

 この歌には本歌(今で言ふ元ネタ)があって、『古今和歌集』の「みちのくうた」にある、

君をおきて あだし心を わがもたば 末のまつ山 波もこえなん

(波が末の松山を越えることがないのと同じやうに、私が浮気することはあり得ない)
を元としてゐる。
 908年生まれの清原元輔が、自分が生まれる前の869年の貞観地震を知ってゐたかどうかわからないが、陸奥の人の間では古くからこの歌が歌はれてゐたのだらう。そしてそこでは「波が末の松山を越えることはない」とされてゐる。
 
 では「末の松山」とはどこなのか。多くの解説書では「宮城県多賀城市」としてゐるが、岩波文庫『古今和歌集』では、校注者の佐伯梅友が「宮城県多賀城市というが、岩手県二戸郡一戸町とする説もある」と書いてゐる。また、小学館『大辞泉』には、

陸奥(みちのく)の古地名。岩手県二戸(にのへ)郡一戸(いちのへ)町にある浪打峠とも、宮城県多賀城市八幡の末の松山八幡宮付近ともいわれる。[歌枕]

としてゐる。

 多賀城だったのか、一戸だったのか。もし一戸だったら、かなり内陸の町なので、「波」が海からの津波であることはあり得ない。川からの波だらう。多賀城は海沿ひの町なので、今回のやうに津波が襲ってきてをかしくない場所である。

 江戸時代の学者尾崎雅嘉は、その著書『百人一首夕話』で、

この本歌の心は奥州に末の松山といふ山あり、それは海辺の山なれど至りて高き山なる故、いか程波の高くたつ時もこの松山を波の越すといふ事はなし。それ故人の心の変らぬ事を、松山を波の越さぬといふなり。

と書いてゐる。
 この説を信じるなら、「海辺の山」と書いてあるので、やはり多賀城付近にあった山といふことになるだらう。

 869年、貞観地震の巨大津波は、はたして末の松山を越えたのかどうか。興味深いところである。


・地震前から貞観地震の再来を指摘してゐた人たち

 今回の大地震であらためて注目された貞観地震だが、地震の前から貞観地震の再来に注意を喚起してゐた人たちもゐたやうだ。

 例へば、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの宍倉正展氏の研究グループによる2007年の論文。

石巻平野における津波堆積物の分布と年代(pdf)

 またこれは別のチームによる2008年の論文で、貞観地震津波について詳しく書いてある。

石巻・仙台平野における869年貞観津波の数値シミュレーション(pdf)


 そして、これはいつ書かれた文章かわからないが、東北大学の箕浦幸治教授による文章。

特集 津波災害は繰り返す

 こゝには、「貞観津波の襲来から既に1100年余の時が経ており、津波による堆積作用の周期性を考慮するならば、 仙台湾沖で巨大な津波が発生する可能性が懸念されます」とはっきりと指摘されてゐる。

 だからと言って、1000年に一度、来るかもしれないし来ないかもしれない、といふほどの大津波を防ぎきれずに被災してしまった人たちを責めることはできない。人間は誰しも滅多に起こらないことには備へることはできないものだ。

 だがそれと同時に私たちは今回の大震災を深い教訓としなければならないだらう。上記の文章で箕浦教授が言ってゐる「こうした 破壊的な災害には、数世代を経ても、あるいは遭遇しないかもしれません。しかし、海岸域の開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。 歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです」といふ言葉を肝に銘じたい。



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