暫定龍吟録

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余震はいつまで続くのか -『方丈記』に見る元暦地震-

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又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。(鴨長明『方丈記』)

(意訳)
元暦二年(1185年)ごろだったと思うが、大地震があった。その様子は尋常じゃなかった。山は崩れて川を埋め、海は傾いて陸地に浸水した。地面は裂けて水が湧き出し、岩は谷に転げ落ちた。船は波間に漂流し、馬は足場を失った。都のあちこちで、仏塔など一つとして無事ではなかった。あるものは崩れ、あるものは倒れていた。塵が立ち上って煙のようだった。震動、家の壊れる音は、雷のようだった。家の中にいれば、たちまち下敷きになってしまう。かと言って外に走りだせば、地面が割れている。羽がないので空を飛ぶこともできない。竜だったら雲にも乗って逃げるだろうが。恐ろしいものの中でとりわけ恐ろしいのは、地震なのだと思った。



 東日本大震災から一カ月以上が経った。普通なら一カ月も経てば、「あの時の地震は」などと振り返るところだが、今回の地震はあまりにも巨大で被害が甚大すぎて、行方不明者の捜索や避難所生活、原発事故の問題も未だ現在進行形だ。
 そして何より、今回の地震の特徴は余震が多い、ということだ。3月11日からちょうど1カ月が経った4月11日にも大きな余震があり、その翌日の4月12日にも千葉県沖で大きな地震があった。東京に住んでいる私のところでは、3月11日から今日4月17日まで、体に感じる地震が1回もなかった日はニ日しかない。
 地面が不安定であるということは、心の不安を引き起こす。震度4とか5のとりわけ大きな揺れではなくて震度1か2程度の小さな揺れでも、こう頻繁に続くと嫌なものだ。私のTwitterのTLでは、多くの人が「怖い」「気持ち悪い」「いいかげんにして」と不安を口にしている。実際に生命の危険を感じるほどの揺れではないのだが、やはり地面が絶えず揺れているというのは、人間の心を不安にさせるものだ。それでなくても、テレビやインターネットで流れてくる三陸地方の悲惨な映像などを毎日たくさん見て、心の平静を失っているのだ。その疲弊して弱った心に相次ぐ余震が追い打ちをかけている。
 東京にいてさえ、これだけ不安なのだ。揺れが大きい東北地方の人はもっと不安だろう。そしてこの余震が何より応えているのは、避難所生活を送っている人たちだろう。

 最初の巨大地震があった3月11日は金曜日で、その翌土曜日と日曜日は、電車もまともに動いてないし、店は休業だらけ、コンビニ・スーパーに行っても買う物がなく、テレビをつけても地震のニュース一色、というわけで、何もすることがなく、また何も手につかなかったので、私は一心に本を読んでいた。
 その時読んでいたのが、『方丈記』だった。

 『方丈記』は、今からほぼ800年前に鴨長明(1155-1216)によって書かれた随筆文学の古典として有名だが、この中に地震に関する記述が出てくる。それが冒頭に引用した部分である。
 鴨長明が被災したこの大地震は、歴史的には「元暦の大地震」として知られている。地震について語ったこの箇所は、『平家物語』にも類似の文章がある。
 「元暦地震」とは、1185年(元暦2年)7月9日、近畿地方を襲ったマグニチュード7.4クラスの大きな地震だった。

近江・山城・大和:京都,特に白河辺の被害が大きかった. 社寺・家屋の倒潰破壊多く死多数. 宇治橋落ち,死1. 9月まで余震多く,特に8月12日の強い余震では多少の被害があった.

(『理科年表』より)

 鴨長明は、この地震を30歳の時に経験した。特に京都で被害が大きかったらしいから、京都人の鴨長明は大きな被害と衝撃を受けただろう。だからこそ、こうやって地震の様子を詳細に記しているのだ。この地震をはじめ、火事(安元三年の火災)、水害(治承四年の竜巻)、飢饉(養和の飢饉)など度重なる災難に襲われたことが、あの「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」で始まる名随筆『方丈記』執筆のきっかけになった。
 そして、この1185年元暦地震の一つの大きな特徴は、余震が多かった、ということだった。鴨長明もその点については詳しく書いている。

かくおびたゝしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしば絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ、二三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種のなかに水火風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。昔斉衡のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御頭落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほこの度にはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。

(意訳)
こんなに大きな揺れはしばらくしてやんだけれども、余震が絶えなかった。普通にびっくりするくらいの地震が1日に2、30回くらいあった。10日、20日ほど過ぎてようやく間隔があいてきて、1日に4、5回、2、3回、もしくは1日おき、2、3日に1回などとなって、結局、余震は3カ月ぐらい続いた。この世のものの中で、水害と火事と台風はいつも被害があるけれども、大地が揺れるなんてことはなかった。昔、斉衡時代(854-857)に大地震があって、東大寺の大仏の頭が落ちたとか聞いたことあるけれど、今回ほどの地震ではなかっただろう。その当時は、人々は皆「情けない」とか「はかない」とか言って、心の中の濁りや欲望も薄らぐように見えたけれども、年月が経って、そんなことを言う人もいなくなった。



 7月9日に起きた大地震の余震が断続的に9月頃まで続いた様子が詳しく記録されている。鴨長明が『方丈記』を書いたのは57歳の頃なので、自身が30歳の時に被災した地震、すなわち27年も前のことを驚くべき記憶力でこんなに詳しく書いているのである。もしかしたら地震があった時、余震の回数などを克明に日記につけていたのかもしれない。そして更に驚くことは、鴨長明は自分が生まれる300年も前の斉衡時代の地震について知っていたことだ。今でこそ、図書館やインターネットに過去のアーカイブが保存されていて簡単に調べることができるが、当時はそれほどの情報社会ではない。今回の東日本大震災があった時も、新聞にでも教えてもらわないかぎり、「そう言えば、300年前の江戸時代にも大きな地震があったなあ」などと思えた人はいないだろう。鴨長明はどうやって300年も前の地震を知っていたのか。古文書を調べたのか、それとも京都の街で代々、人々に言い伝えられて来た話だったのだろうか。


 元暦地震と東日本大震災、時代も違えば、場所も違うし規模も違う。今回の東日本大震災のほうが圧倒的にスケールが大きかった。地学的、地震学的には比較することはあまり意味が無いかもしれない。
 しかし、余震が多いという共通点はある。元暦地震は7月9日に最初の大きな揺れがあり、その約1カ月後の8月12日に強い余震があった。平成の東日本大震災では、3月11日に最初の大きな揺れがあり、そのちょうど1カ月後の4月11日に大きな余震があった。体に感じる揺れの間隔が少しづつあいてきている感じも似ている。余震がいつまでも続いて不安だが、もし『方丈記』を参考にするならば、私は3カ月後、つまり6月くらいには余震は収まるのではないかと思っている。科学的ではないけれども、目安を立てることで不安を和らげているのだ。ただし、もちろん今後も大きな地震に対する警戒は必要だ。

 『方丈記』から学びたいのは、地震の直後は、皆「はかない」などと言って「心の濁り」つまり欲望や執着などが薄らいでいたのに、年月が経つと皆そんなことも忘れてしまった、という鴨長明の指摘だ。
 今回の東日本大震災でも、「ウエシマ作戦」と呼ばれた「どうぞどうぞ」という譲り合いの精神や、「ヤシマ作戦」と呼ばれたみんなで協力して節電しよう、という、たくさんの互助や思いやりの精神が生まれた。こうしたせっかく生まれた美しい精神が、歳月とともに失われていってしまうのは悲しい。

 現代の私たちは、この大災害、大災難にどう向き合い、どう心持ちを持つべきなのか。800年前に書かれた書物がいろいろと教えてくれる。


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