暫定龍吟録

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プロが持つべき「所詮」の意識 -続・反プロ論-

 この記事は前回の「プロとは何か -反プロ論-」の続編記事です。

 NHKの「プロフェッショナル・仕事の流儀」といふ番組があまり好きではないことを前回書いた。

 お浚ひしておかう。プロとは何か。

【プロ】
1.職業として行うこと。また、その職業人。
2.ある物事について、(長年の)経験に裏打ちされた知識・技能を具えている人。専門家。



 前回の記事では、1の意味の「職業人としてのプロ」、すなはち「金をもらってやってゐる人間としてのプロ」を批判したのだった。今回は、2の意味の「知識や技能を持った専門家としてのプロ」を批判しようと思ふ。

 「プロフェッショナル・仕事の流儀」といふ番組を見てて何が嫌かといって、たまたまその分野のことがちょっと得意だからと言って、得意になって「流儀」やら「極意」やらを「語って」しまふところが嫌である。「ちょっと」ではない、「相当」得意なのかもしれない。それでも自ら「語って」しまふのは私は見てゐて痛々しく感じるのだ。
 私はさういふ専門的な技術や技能を持った人に対する敬意は持ってゐる。人によっては尊敬の念を抱く。しかしそれはあくまでも「素人からプロへ」といふ方向であって、これが逆転して「プロから素人へ」といふ方向になってはならないのだ。
 「別に自ら語ってゐるわけではない。NHKの人に聞かれたから答へてゐるだけだ」と言ふかもしれない。なるほど、あれは確かにさういった番組だ。NHKの人が巧みに奥義や極意を聞き出す。そしてプロはついぺらぺらと喋ってしまふ。プロの皆さんはあの番組には出ないはうがいいだらう。

 なぜ私は、プロが自らプロフェッショナルを語るのが嫌なのか。

 それは、プロが「所詮」を忘れる瞬間を垣間見るからだ。

 昔、武士の時代に「刀持ち」といふ仕事があった。主君の刀を管理する。
 刀持ちの先輩が後輩に言った。
 「その方の主君は左利きか」
 「いえ、右利きです」
 「ならば何故そのやうな向きに刀を置いてをる。柄の向きが逆ではないか。それでは敵に夜襲をかけられた時に咄嗟に右手で刀を持てないではないか。そんなことではプロの仕事とは言へないぞ!」

 かういふ「先輩」が、いつの時代にも、戦国時代にも江戸時代にも明治時代にも昭和時代にもゐただらう。

あなたがたは社会の現在の秩序に信頼して、それがさけがたい革命におびやかされていることを考えない。
(J.J.ルソー『エミール』)


 最近読んで大いに共感したのは、「仕事の流儀は世代によって異なる」といふ当たり前のことを書いたブログ記事だった。

 ●企画プランナーの頭の中●:ワークショップで考えさせられた世代間で異なる「仕事の流儀」

 社会を安定した秩序の状態と捉へてゐる「先輩」たちは、敵が今まで通り、刀で襲ってくることしか考へてゐない。ピストルを持って襲って来ることを考へてゐない。ピストルで襲はれたらもう一瞬で、刀を右向きに置いてゐようが左向きに置いてゐようがそんなのはあまり関係ないだらう。


 「剣術」といふものがある。現代にも何十、何百といふ流派があって稽古や指導が行はれてゐる。今も世界のあちこちで、師範が弟子に向かってもっともらしい顔で「奥義」だの「極意」だのを伝授してゐることだらう。
 しかし、刀剣が実際に武器として活躍した戦国時代ならいざ知らず、現代において剣術をマスターすることに何の意味があるのか。その剣術はどこで使ふ場面があるのか。
 剣術といふと、いかにももっともらしく聞こえるし、「奥義」や「極意」といった言葉が似合ふし、職人っぽさやプロっぽさを感じる。けれども所詮は、全国各地にある「伝統芸能保存会の皆さん」とやってることは変はりないのだ。
 もっとも私は、伝統的な技芸を馬鹿にしてゐない。それは時に芸術的な価値があり、伝へていく価値がある。しかし、それは必要缺くべからざる「仕事」ではない、といふことだ。


 大正時代から昭和前期にかけて、蒸気機関車が走ってゐた。ウィキペディアによれば、当時の国産の蒸気機関車の技術水準は低く、もっぱら機関士や検修員など現場職員の「職人芸」的な技量によって補われながら走ってゐたといふことだ。
 先輩機関士が後輩機関士に向かってプロとしての仕事の流儀を教へる。
 「火室に放り込む一回の石炭の分量はこれぐらゐだ。タイミングはこれぐらゐのタイミングで。早すぎても遅すぎても駄目だ。シャベルはかういふ姿勢で持ったはうがやりやすい。いかに効率的にできるかを常に考へろ」。
 しかし、かうした「流儀」は現代において役立ってゐるだらうか。日本において蒸気機関車が活躍してゐた時期は70年にも満たない。親子三世代にすら伝はることのない技能を、さももっともらしく語るなど滑稽ではないか。


 パソコン教室の先生が超初心者の生徒さんたちに向かって言ひました。「この砂時計のマークが出たら”待て”の合図だと覚えて下さい」。だが、WindowsVistaからは砂時計はサークルの形に。馬鹿の一つ覚えをしてゐた生徒さんは言ひました。「あれ、先生、”待て”は砂時計ぢゃなかったの?」。私は、ビル・ゲイツの気まぐれにいちいち付き合ふパソコン教室の先生はすごいと思ふと同時に愚かだとも思ふ。


 私は将棋が好きだ。現代の将棋界は歴史的にもかなり高いレベルに位置してゐる。そのトップに君臨する羽生善治はプロとして一流、いや、超一流だ。私は、羽生の超一流のプレイをいつも感嘆の眼差しで見てゐるし尊敬をもしてゐる。こんなすごい人はもう二度と出ないのではないか、ぐらゐに思ってゐる。だが、その羽生にしたって、人間の将棋指しとしては超一流であるといふにすぎない。数十年後には世界で超一流の将棋プレイヤーはコンピューターになってゐるはずである。
 そして将棋は、所詮、ゲームであり娯楽である。明日から将棋が無くなっても誰も困らない。せいぜい一部のプロ棋士と将棋連盟の職員が食ひ扶持に困るくらゐだらう。

 この「所詮」といふ感覚を忘れないでほしいのだ。
 将棋が柔道や剣道のやうに、「将棋道」を名乗り出したら嫌だ。たかがゲームなのにもっともらしく語らないでほしいのだ。

 私はプロを馬鹿にすることを奨めてゐるのではない。むしろ逆で、「非プロ」の素人・一般人たちは、もっとプロへの敬意を持つべきである。これは素人からプロへ、といふベクトルでの話だ。そして逆にプロから素人へ、といふベクトルにおいては、プロはもっともらしいことを語らず、常に「所詮」といふ気持ちを持ってゐてほしい。


 そもそも、「流儀」といふ言葉自体が極めて私的な性格のものだ。「私はかういふやり方でやってますよ」といふだけのことだ。他人にもっともらしく語るやうなことではない。もっとうまいやり方、効率的なやり方があるかもしれないが、それも「所詮」の前では些細なことである。
 井の中の蛙にも泳ぎのプロがゐるだらう。一掻きでどれだけの距離を進めるか、そのやり方を真剣に語ってゐる蛙がゐることだらう。その真剣さは認める。けれども、所詮、井の中であることも忘れないでゐたい。