暫定龍吟録

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英語ができてもしょうがない、1億円稼ぐことができてもしょうがない -「できる」とはどういうことか-

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Photo by b_d_solis


 「英語なんかできてもしゃうがない」、「ピアノなんか弾けてもしゃうがない」。

 ずっと前からさう言ひ続けてゐる。

 多くの人は、英語がしゃべれたらいいな、もしもピアノが弾けたなら、と思ってゐるだらう。英語はしゃべれたはうがいい、ピアノは弾けたはうがいいに決まってゐる、と。だが、私はやはり英語なんかしゃべれてもしゃうがないと思ってゐる。なぜ、さう思ふのか。その理由を今日は書かうと思ふ。


・「できる」とはどういふことか

 「英語がしゃべれる」とは、いったいどういふことであらうか。
 「英語がしゃべれる」は、「英語をしゃべることができる」と言ひ換へることができる。
 では、「できる」とはどういふことなのだらうか。
 『広辞苑』には次のやうにある。

できる【出来る】

一、出てくる。

二、形をとって現れる。
 ア、うまれる。
 イ、発生する。おこる。 
 ウ、作られる、生産される。
 エ、男女がひそかに結ばれる。

三、まとまりがついて仕上がる。
 ア、完成する。
 イ、物事がうまく行く。
 ウ、苦労をして人物が練れる。

四、それについての能力・才能がある。

五、可能だ。また、・・・する能力または権利がある。



 「英語(をしゃべること)ができる」と言ふときは、これの四番目の意味がそれに当たるだらう。『広辞苑』は古い語義から順番に載ってゐるので、「能力・才能がある」といふ語義よりも先に「出てくる」といふ語義があることがわかる。

 ところで、私は、この二番目や三番目の意味、すなはち「形をとって現れる」と「まとまりがついて仕上がる」といふ語義が重要であると思ってゐる。これは「実現する」といふことであらう。
 しかし、多くの人が「できる」といふ言葉から真っ先に聯想するのは、四番目や五番目の「能力・才能がある」の意や「可能」の意だ。

 そこで先づは、「可」とはどういふことなのかを考へるために「可」の反対である「不可」とは何かといふ問題から考へてみたい。


・「こゝで小便すべからず」とはどういふ意味か

 これは、もう子どもの頃からずっと疑問だった。
 最近では見かけることも少なくなったけど、ときどきコンクリートの塀などに書いてあったりする言葉。
 こゝで小便すべからず、とはいったいどういふ意味なのか。

 「すべからず」といふのは、中国語の「不可」を漢文読み下し風に読んだ言葉で、今では少し古臭い言ひ方に聞こえる。
 これを現代語っぽく訳すとどうなるのか。

 思ふに次の3つの訳が考へられると思ふ。

 A.こゝで小便をすることはできない。

 B.こゝで小便をしてはいけない。

 C.こゝで小便をするべきではない。

 この3つはすべて似た意味だけれども、微妙にニュアンスが違ふだらう。

 「可」は可能といふ意味で、その反対の「不可」は不可能といふ意味だから、その意味からするとAが正しいやうに思へる。こゝで小便をするのは「不可能」なのだ。しかしこの言ひ方だと、物理的に不可能だと言ってるやうに聞こえる。「こゝで小便をすることはできない」と言はれると、「そんなことないさ。俺がしてみせやうぢゃないか」と言ふ人が現れさうだ。

 Bは、「禁止」の意味だ。この文言を書いた人の気持ちに一番近いのは、これではないだらうか。してはいけない、と強く禁止したいのだ。

 「べからず」の肯定形は「べし」で、連体形の「べき」も最近では文末に使はれることも多い。「べき」の反対だから「べきではない」と訳してるのがCだ。このCの言ひ方だと、「不可能でも禁止でもないんだけど、つまりこゝで小便をすることは可能だし法律違反でもないんだけれど、なるべくならしない方が望ましいよね」と言ってるやうに私には聞こえる。しないのが「理想」だと。
 国語辞典を引くと、「べし」といふ言葉は本来「当然」といふ意思を表す言葉であって、「理想」とか「希望」といふニュアンスは載ってゐない。「当然」とは「まさにしかり」といふことだらうが、現代人は「まさにしかり」なんて言はれてもピンと来ないだらう。
 現代人の私には、「べき」といふ言葉には、それを言ってる本人の理想や希望が含まれてゐるやうに聞こえる。「当然」といふときもやはり「さうあってほしい」といふ願望、理想が込められてゐる気がする。

 結局、「べからず」とはどういふ意味かは未だに分からないのだが、これを書いた人の気持ちになって考へれば、こゝで小便をしてほしくないわけだから、Bの「してはいけない(禁止)」と訳しておくのがいいだらう。


・「できる」の3つの意味

 上に引用した『広辞苑』では、「できる」は5つの語義が説明されてゐるが、これは大きく次の3つの意味に分けられると思ふ。
 
 1.実現する

 2.能力・才能がある

 3.可能である


・世界で二人しか喋れる人がゐない「アヤパネコ語」

 ところで突然だが、あなたは「アヤパネコ語」をしゃべれるだらうか。しゃべれないだらう。無理もない。アヤパネコ語をしゃべれる人は世界に二人しかゐないのだから。
 私はある日、こんな記事を見つけた。

たった2人の使用者どうしの仲が悪いためにメキシコの「アヤパネコ語」が絶滅の危機 - DNA

メキシコ・タバスコ州アヤパ村に伝わるアヤパネコ語は元の名前を「Nuumte Oote(「真の声」の意)」といい、自然音を取り入れた豊かな表現が特徴の現地語です。かつてはメキシコ全土で使われており、スペインの支配や自然災害を生き抜いた歴史ある言語でしたが、20世紀なかごろからのスペイン語教育の強化によって段々と使用人口が減少してきました。
集落の過疎化によって使用者が離散してしまったこともあり、この言語を使えるのは今では75歳のマニュエル・セゴビアさんと69歳のイシドロ・ヴェラズケズさんの2人だけ。しかし、たったの500mしか互いの家が離れていないにもかかわらず2人は決してお互いに口をきこうとしないそうです。


 世界でたった二人しかしゃべれない言語をしゃべれるといふのは、すごい能力だ。しかし、この、すごい二人はアヤパネコ語をしゃべる機会も必要性もない。唯一、自分の言葉を理解してくれる相手とお互ひに仲が悪いから、そのすごい能力を発揮する機会はない。他の人とコミュニケーションをとるときはアヤパネコ語では通じない。だからこの二人はもう一生アヤパネコ語をしゃべることはないだらう。この二人の死をもってアヤパネコ語は永遠にこの地球上から消滅する。


・「英語をしゃべることができる」とはどういふことか

 英語をしゃべることができる、とはどういふことか。
 さきほどの「できる」の3つの意味に当てはめて考へてみたい。

 「可能」。これは物理的に可能かどうかといふ意味で、例へば聾唖者とか何らかの理由で発声器官を失ってゐる人は英語をしゃべることができないだらう。
 「能力・才能」。これは文字通り英語をしゃべる能力、語学の才能などのことで、「私、英語しゃべれます」と言ふときは、普通、この意味で言ってる人が多いだらう。
 「実現」。これは実際に英語をしゃべったか、といふことが問はれる。英語を話す機会がない、必要性がない、しゃべる相手がゐない、などの理由で、英語をしゃべれないことはあるだらう。アヤパネコ語の例が良い例だ。

 これは、「できる」を、能力・才能の意にとる例だが、次に「可能」の意にとる例を見てみよう。


・3カ月で20kg痩せられる?

 「3カ月で20kg痩せられる!」とか「1カ月で10kg痩せる技術!」、「1週間で5kg痩せる方法」などといった本やサイトは巷に溢れてゐる。
 「3カ月で20kg痩せられる(痩せることができる)」といふのは果たして本当だらうか。私は嘘だと思ふ。今現在、体重が18kgしかない人は20kg痩せることはできないだらう。一旦太ってから20kg体重を落とすといふ周りくどいことをすれば別だが。
 しかし、かういふ本の著者はそんなことを言ってるのではない。痩せることや体重を落とすことが「可能だ」といふことを言ってるのだ。あるいはさういふ「技術」や「方法」がある、といふことを言ひたいのだ。

 本屋の新書コーナーなどに行けば、『すぐに◯◯ができる技術!』とか『簡単に◯◯ができる10の方法』などといったタイトルの本をたくさん見かける。例へば、『一年間で1億円稼げる方法』とか。
 私はかういった本に興味がない。誰かから「一年で1億円稼げる方法があるんだけど・・・」と話を持ちかけられても「そりゃ、あるだらうな」としか思はない。銀行強盗を上手にすれば1億円は手に入るだらう。「いやいや、それは犯罪でしょ」と言ふのなら、法に触れないギリギリの範囲であくどいことをして大金を稼ぐ方法、技術、テクニックはいくらでもある。
 やるかやらないかは別にして、「できるかできないか」と聞かれれば、それは「できる」。

 できるかできないかといふことを可能か不可能かといふ意味で捉へるなら、ほとんどのことは可能なのだ。

 部屋の畳の上で小便をすることだって、それは「可能である」。


・忘れられてゐる「実現」の意味

 しかし、畳の上で小便することを「実現する」のは難しい。1億円稼ぐのだって実現するのは難しい。
 畳の上に放尿するのは可能だ。誰だってできる。赤ちゃんにだってできる。でもそれを実際にやってみるとなると、後で雑巾で拭かなければいけない、シミや臭ひが残ってしまふかもしれない、といった後々の面倒を考へると、とても「やってみよう!」といふ気にはなれない。

 私の考へでは、「できる」といふ言葉には大きく3つの意味がある。「実現」、「能力」、「可能」の3つである。
 しかし今の世の中では、この「できる・できない」といふ言葉はほとんど「可能・不可能」の意で使はれてゐる。そして英語やピアノの場合は「能力の有無」の意で。

 だが本来、「できる」といふ言葉には「実現する」、「出現する」、それが「出で来たる」といふ意味合ひがもっと強くあったはずだ。
 例へば、「英語をしゃべることができる」を過去形にしたら分かりやすいのではないだらうか。

 「英語ができる」→「英語ができた」

 「私は英語をしゃべることができる」→「私は英語をしゃべることができた」

 かうなったら、もうはっきり「実現」の意が見てとれるだらう。潜在的に英語がペラペラしゃべれる能力があっても、実際にしゃべらなかったら「英語をしゃべることができた」とは言へない。


・条件、前提の重要性

 英語なんかしゃべれてもしゃうがない。ピアノなんか弾けてもしゃうがない。20kg痩せられてもしゃうがない、と私が言ふ意味もこゝまでくれば少しは分かってもらへると思ふ。

 体重が18kgしかない人は20kg痩せることはできない。ピアノが目の前にない人はピアノを弾くことはできない。しゃべる相手がゐない人は英語をしゃべることはできない。

 そんなの当たり前ぢゃないか、と思ふ人は、これらのことを自明の前提だと思ってゐる人だらう。「普通の成人は体重は40kg以上あるだらう」、「ピアノなんかどこにでもあるぢゃないか」、「しゃべる相手なんかいっぱいゐるだらう」と。

 でも私はこれらを自明の前提とか当然の前提とは思ってゐない。
 そしてむしろ、かうした前提としての状況や条件としての環境を問ふことは、「技術」や「方法」について考へたり、「能力」の有無を問ふたりすることよりも、ずっと重要なことだと思ってゐる。そしてそれは、私たちの住む社会や環境や世界を考へるといふことである。

 引き篭もりでしゃべり相手が一人もゐない人にとって、友達を一人作ることは英語能力を身につけることよりも100倍難しいことだ。


・爆弾を作れる中学生

 何年も前のことなので記憶があやふやなのだが、ネットが普及し始めたばかりのころ、中学生が爆弾を作った罪で捕まったといふニュースがあった。結構、世間でも話題になった。「どうして中学生が爆弾を作れるのか?」、「どうやらインターネットで調べて作ったらしいよ」と。当時の大人たちは、その方法をどうやって知ったのかといふことばかりに関心を持ってゐた。そして、インターネットが浸透し始めたばかりの頃といふこともあり、「怖いねー」、「インターネットでそんなことまで調べられちゃうんだね」、「ネットはやっぱり良くないね」といふ論調が大勢だった。

 私はさうした世論を鼻白む思ひで見てゐた。

 中学生が作り方を知ってゐたとしても、それは驚くやうなことではない。今は逆にさういふ情報への規制が厳しくなってゐるのかもしれないが、それでも上手なググり方さへ知ってゐればそんな「方法」はいくらでも知ることができる。
 しかし実際に作るのは難しい。材料を買ひに行ったら店が閉まってゐたかもしれないし、やっと店が開いて買はうとしたら手持ちのお金が足りなかったかもしれないし、作ってる途中で面倒くさくなって「やーめた」となるかもしれない。


・もう一つの「できる」

 ピアノなんか弾けてもしゃうがない。
 目の前にピアノが無い。周囲にピアノを教へてくれる先生がゐない。ピアノ教室まで通ふ体力がない。さういふ環境の人はたくさんゐる。いや、むしろ世界にはピアノに触れる機会がない人の方がずっと多いだらう。

 20kg痩せる「方法」や「技術」はいくらでもある。
 私は「あなたもこの方法で◯kg痩せられる!」などと謳ってゐる本がすべて嘘だとは思はない。たしかにその本に書かれてゐる運動や食餌制限をすべて実行すれば本当に◯kg痩せられるのかもしれない。しかし、さういふ本に書かれてゐる内容を「実行」することがいかに難しいことであるかは、ダイエットに取り組んだ経験のある人なら分かるはずだ。

 変な言ひ方になるが、「できることができる」かどうかが問題なのだ。あるいは「やることができる」かどうか。つまり、実際に行動に移したり、何かを形に表したりすることができるかどうか。

 これを「能力」の意にとるなら、「実行能力」あるいは「実現能力」といふことになる。

 これを「可能」の意にとるなら、「実現可能性」といふことになるだらう。


・「できる」の本来の意味を取り戻さう

 しかし「できる」といふ言葉には、「能力・才能」、「可能」の意味の前に「出現する」、「出で来たる」の意味があった。

 私は「できるかできないか」といふことに興味がない。ほとんどの場合、その答へは「できる」だからだ。
 だが、「できる」のもう一つの意味、すなはち「出で来たる」かどうかといふ意味での「できるかできないか」といふ問題には興味がある。それは前提を問ふことだからだ。前提条件としての私たちの環境や社会を問ふことは、私は意義があることだと思ってゐる。

 無人島に住んでる人は、縦令、目の前にピアノがあってピアノを弾くことができたとしてもピアノを練習しようとは思はないだらう。それを「すごい!」と言って褒めてくれる人がゐなかったら誰がピアノを練習しようと思ふだらう。

 前提を問ふことは決して自分が「できない」ことの言ひ訳ではない。むしろ積極的に前向きに「できる」ことを考へることだ。

 英語ができる人になりたいと思ふのではなく、英語ができる(出で来たる、出現する)社会をつくりたい、と思ふ方がずっと価値がある。

 「できる」の本来の意味を取り戻さう。その上でできるかどうかを考へていかう。