暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

なぜ車優先の道路は改まらないのか

 こゝのところ、京都府京都市、京都府亀岡市、千葉県館山市などで自動車の暴走事故が相次いだ。

 このブログでは以前からたびたびクルマ社会を批判してきた。
 クルマ社会の問題は、もうずっと昔から存在してをり、むしろ日本における年間の交通事故死傷者数は減って来てゐるので、このタイミングでクルマ社会批判の記事を書く理由はないかもしれないが、社会的な関心が集まってゐるこの時期にまた少し書いておきたい。


・道路が悪いのか運転手が悪いのか

 毎日新聞が2012年4月24日に書いた記事を一部抜粋。

▲京都・祇園をつむじ風のように走り抜け、7人の命を奪った暴走事故の真相解明もまだすんでいない。
なのに今度は京都府亀岡市で登校中の小学生の列に乗用車が突っ込む惨事である。
児童と列に付き添っていた妊娠中の女性がおなかの赤ちゃんともども亡くなった
▲いつもと変わらない月曜朝の笑顔の列、そこからいくつもの未来が一瞬で奪われるなどと誰が想像できたろうか。
だが友人と一晩中車を走らせていたという18歳の無免許運転は、ごく普通の車をまがまがしい凶器に変えた
▲よく人間の暴力がやっかいなのは、強い爪や牙をもつ動物と違って攻撃を抑える本能が乏しいのに破壊力の大きな武器をもったからだといわれる。
同じように、人力とは比べようもないパワーを持つ車も少年の無軌道に途方もない「暴力」の魔をまとわせてしまった
▲生身の歩行者にとって車が暴力の相貌を帯びるのはモータリゼーションの初期ばかりではない。もしや守れた命ではなかったのか。
通学路はじめ生活道路の安全の点検は何度でも繰り返すべきだ。



 これを読んだ2chねらーの感想。

何で道路のせいにしてんだよ。


車が悪いんじゃなくて運転手が悪いんだ。
車のせいにはしないでほしい。


ほんと一部のバカと過剰反応するバカのせいでどんどん不便になるな。


こういう稀にある狂った連中の犯罪や事故にまで社会的コストと対策を講じても無意味に等しい
速やかに加害者を殺すくらいしか再発を防ぐ手段はない
一罰百戒


 いかにも典型的な2chねらーっぽい発言だけを抜粋した。
 毎日新聞の記事は犯人である運転手を擁護して、この事故を道路やクルマのせゐにしてゐるといふわけだ。


・稀にある事故か?
 
 では、今回のやうな「無免許」で「居眠り」の事故は、稀な事故なのだらうか。
 たしかに人の命を奪ってしまふほどの交通事故は稀である。しかし一つの事故の背後には危機一髪のところで事故に至らなかった、ぎりぎりのところで回避された危ない場面が何千倍もある。
 死亡事故などは言はば起こったら「おしまひ」であり、「稀にある」どころか稀にでも起こってはならないことである。


・厳罰化で事故は防げるか?
 
 運転手の厳罰化で今回のやうな事故は防げるのだらうか。居眠りしてゐた運転手も厳罰が怖くて目が覚めるのだらうか。
 長距離トラックの運転手の仕事とか、眠くても苛酷に走らされてゐる仕事がある。「今日は眠いです」と言へば、上司が「それなら運転しなくてもいいよ。休みなよ」と言ってくれるだらうか。
 無免許だった点を指摘して「かういふバカは厳しく罰しなければいけない」と思ってゐる人もゐるかもしれないが、館山の事故は無免許ではなかった。免許を持ってゐても事故を起こすことはある。
 免許を持ってゐる90歳の運転と免許を持ってゐない18歳の運転とではどちらが危険だらうか。


・子どもの遊び場を奪ふクルマ社会

 Twitterのタイムラインにこんなのが流れてきた。


 これはもうまさに私の子ども時代がかうだった。
 本当に遊び場がまったくなかったので、しかたなく友だちの家の前のクルマ一台がぎりぎり通れる幅の道路で野球(のやうなこと)をして遊んでゐた。クルマが通るたびに皆で「くるまー、くるまー」と声を掛けあって試合を中断し、一斉に壁にへばりつく。そしてクルマが通り過ぎたら再びプレイ再開。そこは生活道路だったが、幹線道路の抜け道として利用するクルマも多かった。


・クルマは大人の利器

 私がクルマ社会を批判すると、「お互ひ様でせう」と言ふ人がゐる。誰だって歩いてゐる時はクルマは邪魔かもしれないが、自分がクルマに乗って出かけてゐる時は歩行者に迷惑を掛けてゐる、だからお互ひ様だ、といふわけだ。

 私はクルマに乗らない。自分が運転しないばかりでなく、助手席にも後部座席にも乗らない。親も祖父母もクルマを持ってゐない。
 しかし将来は分からない。何年後、何十年後かには私もクルマに乗ることがあるかもしれない。
 私はまだいい。

 今回のやうな事故が特に心が痛むのは、亡くなったのが幼い子どもだからだ。
 子どもにとっては、クルマといふ存在は、まったく「お互ひ様」ではない。クルマは18歳以上の大人の乗り物であり、子どもがクルマを運転してその恩恵に預かることはない。ましてや7歳で亡くなってしまったら一生クルマの免許すら取ることはないし、まさにたゞたゞ邪魔なものでしかなかったことになる。


・なぜクルマ優先の道路は改まらないのか
 
 亀岡の事故現場の道路、私はテレビで見ただけだが、ひどい道路に見えた。あれでも数年前に歩道が広くなったのださうな。朝の一方通行ではない時間帯は双方向ださうだが、クルマ同士がすれ違ふ時に思ひっきり歩道にはみ出してゐる。白線の外側は歩道だといふ建前すら守られてゐない。当然さういふ時は歩行者が立ち止まるなり避けるなりしてクルマを通してゐるのだらう。
 しかしこんなふざけた道路は日本中にいっぱいある。白線の引き方からしてそもそもをかしくて、日本には“ちゃんとした歩道”の方がむしろ少ない。日本では先づ、車道があり、その脇の僅かな隙間を歩行者が歩かせていただくことになってゐる。
 クルマは歩行者の協力がなければ通ることができない。歩行者が自主的に避けてくれたりどいてくれたりすることが前提となってゐる。「危ないからどいてね」といふわけだ。トラックがバックする時、録音された女の声で「バックします、ご注意ください」といふあの科白が象徴的だ。歩行者が車道の真ん中に突っ立ってゐることは許されないが、クルマは堂々と歩道に停まってゐる。

 どうしてこんなふざけた道路の在り方は改まらないのか。
 生活道路には基本的にクルマは通すべきではないと思ってゐる。抜け道利用を許すべきではない。沿道に住んでる人にとってはさうした細道に入って来るクルマは危険で邪魔なものでしかないからだ。
 だが、その沿道の人たちがクルマを持ってゐる場合がある。
 東京と田舎とでは「生活道路」といふ言葉の意味合ひも違ってくる。田舎では「生活=クルマ」である場合も多い。こゝにクルマ社会問題の根深さがある。なかなか道路の在り方を改められない理由だ。

 だから私は東京から改めるべきだと思ってゐる。クルマがないと生きていけないと言ふほどの生活必需品となってゐる田舎はともかく、東京でクルマに乗ることはたゞの贅沢でしかない。

 昔、近所のをぢさんが言ってゐた言葉。

先づ、十分な広さの歩道を造り、それでも道幅に余裕があったら自転車道を造り、それでもまだ余裕があったら自動車道を造る。


 至言だと思ふ。