暫定龍吟録

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ソーシャルスコアとソーシャルプア

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via businessesgrow.com



 先月(2012年4月)、朝のNHKテレビを見てゐたら、最近の就職活動の在り方、特に採用する企業の側の在り方が変はってきた、といふニュースをやってゐた。ある不動産会社が今年から、銓衡の際に、履歴書や面接だけでなくフェイスブックのチェックを始めた、といふ事例が紹介されてゐた。その会社の採用担当者曰く、面接などはどの学校も力を入れてゐるので何を質問してもありきたりな答へしか返ってこないので、フェイスブックで応募者の素顔を知りたい、とのことだった。

 私はこのニュースを聞いてゐて、情けなく思った。
 フェイスブックで応募者の素顔を知ることができる!?

 かつて悪質SEO業者とグーグルが何年にも渡り繰り広げてきたあの不毛な戦ひを、ソーシャルネットワーク版でやり直さうと言ふのか。

 実際、もうパーソナルブランディングに関するさまざまな対策がすでに進行してをり、その番組で紹介されてゐた学生向けの就職活動セミナーでは、フェイスブック対策が教へられてゐた。その内容がまた驚くべきもの(と言ふよりくだらないもの)だったのだが、(1)笑顔の写真を掲載しろ、(2)友達の数は50人以上を目指せ、(3)週に2回は前向きな発言を書き込め、といふものだった。

 (1)は自分でできる。(3)は、週に2回くらゐの頻度でポジティブな発言を自動的に書き込んでくれるbotがすぐにでも登場するだらう。そして(2)こそ、悪質業者の出番だ。10万円であなたの友達の数を100人以上にしてあげます、などといふ業者が雨後の筍の如く現れるだらう。いや、もうすでにあるのかもしれない。

 本当にフェイスブックで応募者の素顔を見られると思ってゐるのだらうか。私はテレビを見てゐて、企業の採用担当者がこんなことでは情けない、と不安になった。


・人間を数値化する「ソーシャルスコア」
 
 昨年2011年に「パーソンランクの時代」といふ記事で、人間をノードとしたランク付けの世界が始まらうとしてゐる危惧について書いた。そこでは、とりあへず「パーソンランク」といふ言葉を使ったが、他の言ひ方があるかもしれない、とも書いた。
 私は英語圏のウェブを見てゐるうちに、それが「ソーシャルスコア」といふ言葉で呼ばれてゐるのを見かけた。このソーシャルスコアといふ言葉はまさに私がパーソンランクと呼んでゐたものだ。
 人間を数値でランク付けするといふのは、衝撃的なことであり、多くの人は直感的に反発を感じることでもあらう。実際、ソーシャルスコアの代表格ともいふべきKlout(企業名またサービス名)に対し、英語圏では批判の記事がたくさん書かれてゐる。
 私は「パーソンランクの時代」の記事の中で、パーソンランクにしろエッジランクにしろ、さうした仕組みは出来てゐたとしてもなるべく人の目に触れないやうにしなければいけない、と書いたが、Kloutなどはまさに思ひっきり人の目に触れるやうに、しかも分かり易く表示する仕組みにしてゐる。
 当然だが、人間はそんな数値で測れるものではない。なんでも数値化、定量化しようとするのは西洋人の悪い癖だ。

 そしてKloutに対する批判記事でもやはり多いのが「差別に繋がる」といふ点を指摘する声だ。ソーシャルスコアが低いだけで駄目な人間と見做されてしまったり、差別的な扱ひを受けたりすることになる。「私はスコアの数値を見ても心を動かされません。絶対に差別しません」と言へるほど、人間の心は強くないからだ。
 先日ツイッターのタイムラインで見かけたのは、「この人はかういふところがいい、とか、かういふ点だったらこの人が優れてゐる、とか、 それぞれの人の長所を見て付き合っていきたい」といふ誰かの発言だった。つまり、一人の人間に総合的に点数を付けるのではなく、この人は歴史に詳しい、だとか、音楽に関することだったらこの人に聞かう、といふやうなそれぞれの人の得意分野に注目してフォローしていく、といふスタイルだ。

 ソーシャルスコアの仕組みではそこまで詳しく見えない。もしかしたら、そこまでの細かい分野別スコアにも対応しますよ、とKloutが言ってくるかもしれないが、しかし、あの人は優しいのが取り柄だ、とか、情感が豊かだ、とか、センスがいい、だとか、さういふことは決して数値化できるものではない。
 あの人は、何の経験も地位も才能も無ささうだしフォロワー数も少ないみたいなんだけれども、でもなんとなく心が暖かい感じがするからフォローしてゐる、といふこともあるはずだ。

 しかし、こんなことは別に新しく言ふまでもなく、昔から言はれて来たことだ。全人的に付き合ってゐると、ちょっとでも欠点があった時にその人のことを許せなくなってしまって、結果的に友だちができないといふことになるから、いろんな人の長所だけ見て付き合っていったらいいよ、といふやうなことは昔の人も繰り返し言ってゐることだ。
 こんな「人間との付き合ひ方」を改めて唱へる人が出て来るのは、それだけ「ソーシャルスコア的世界」が普及して来るかどうかの岐路に今まさに来てゐるからだらう。
 

・やって来たる「ソーシャルプア」の問題

 しかし、かうした数値化システムの普及が進行するか留まるかに拘らず、所謂「ソーシャルプア」の問題は確実にやって来る。
 これも、今、私は仮に「ソーシャルプア」と言ふけれども、違ふ言葉で言はれるかもしれない。

 ワーキングプアとソーシャルプアの違ひは、前者が「職が無い、金が無い」状態(または人)を言ふのに対して、後者はそれに「人脈が無い、能力が無い、経験が無い」が加はったやうなものと考へれば分かり易いだらう。

 「社会的貧困」と「ソーシャルプア」の違ひは、ソーシャルメディアを通してより明らかになりやすい貧困が後者だと考へればいいだらう。
 だからこそ、ソーシャルメディアの普及に当たっては、もっとソーシャルプアの問題が考へられなければならない。

 人々はこの世界の見方が「勝ち組、負け組」などといふ見方でいいと思ってゐるのだらうか。フェイスブックやリンクトインが「勝ち組」のためのツールにしかなってゐない現状をどう思ってゐるのだらうか。

 かうした格差を増さしめる世界の在りやうを変へるには、所謂「ソーシャルグッド」などのソーシャルメディアを社会を良くするために使ふことも一つの方法だが、それと同時にソーシャルメディアの設計デザインについて根本からの見直しを迫らなければならないだらう。そしてネットユーザーひとりひとりは、かうした世界を助長する行動に加担しないやうにすべきだらう。

 「ソーシャルメディアを使って優秀な人材を確保する」などと短期的な利益ばかりを見てゐてよいものか。


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  • パーソンランクの時代(2011/12/31)