暫定龍吟録

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よみがえるチューリング -アラン・チューリング生誕100年-

turingyear



 毒林檎を齧って死んだ有名人と言へば?

 白雪姫。さう。だがもう一人ゐる。

 アラン・チューリング(Alan Turing 1912-1954)。

 20世紀を代表する天才数学者にして、現代に繋がるコンピュータの生みの親、第二次世界大戦の連合国の勝利に貢献した暗号解読者、同性愛者、そして謎の死を遂げた男。

 今日2012年6月23日は、チューリング生誕100年の日にあたる。
 最近では、コンピュータを専攻するやうな学生でもチューリングの名を知らないとかいふ話を聞いたことがある。たしかにこの天才数学者は日本では今まであまり知られて来なかった。そして本国イギリスでも長年、不当な扱ひを受けてきた。
 しかし、こゝ3、4年ほど前からのTwitterの流行などで人々はbotに出会ひ、一部の人たちは「チューリングテスト」を思ひ出した。そしてそれまでチューリングの名を聞いたことのなかった人たちも、さういったところで「チューリング」の名をぽつぽつと耳にするやうになった。

 チューリングイヤーの今年、チューリングの人生と、彼ののこした遺産が現代・未来にどのやうな意味を持ってくるのかを考へたい。


・長らく回復されなかった名誉

 本国のイギリスですら、長年にわたってチューリングを語ることが憚られて来たのは幾つかの理由がある。一つはそもそも暗号解読者といふ言はば国家の「秘密組織」に属する人間であったこと。そしてもう一つは同性愛者であったこと。チューリングが生きてゐた時代はイギリスでもかなり同性愛者に対する偏見は強かったやうだ。

 2009年9月、当時のブラウン首相は、自国の英雄アラン・チューリングに対して歴史的謝罪をした。

 PM apology after Turing petition | BBC NEWS(2009年9月11日)(英語)

 同性愛者といふ偏見からひどい仕打ちをしてきたことへの謝罪だった。


・もしチューリングが暗号解読に成功してゐなかったら

 チューリングの業績は多岐にわたるが、その中の一つに第二次世界大戦において「解読不能、決して破られることはない」と言はれたドイツ軍の最強の暗号「エニグマ」を解読したことがある。
 戦争の勝敗といふものは一つの要因だけではなく、幾つもの要因が複合的に絡まり合って決定するものだ。しかしドイツ軍の暗号を解読したといふのはその中でも明らかに連合国軍を勝利に導いた大きな要因であったらう。暗号が解読される前のイギリスはドイツ軍によって海上の食糧確保ルートを絶たれ、かなり厳しい状況にあったと言はれてゐる。それがチューリングが率いるチームが暗号解読に成功した後から形勢は逆転する。
 もしチューリングが解読に失敗してゐたら、と思ふ。ドイツ軍は勝ちはしなかったかもしれないが、戦争はもっと長引いてゐたかもしれない。そしてロシアやアメリカとの関係も変はり、日本への原爆投下の判断も変はってゐたかもしれない。
 さう考へると、私たち日本人にとっても、チューリングは大きな影響を与へた人物だと言へる。


・日本におけるチューリング

 日本におけるチューリングの知名度はまだまだ低い。「チューリングテスト」、「チューリングマシン」といふ言葉は知られてゐても、人物そのものについてはあまり知られてゐない。チューリングの名は数学やコンピュータの専門書に出て来るだけだ。

 私が知るかぎり、チューリングのことを書いた一般書は、星野力氏による一冊しかない。星野力『甦るチューリング コンピュータ科学に残された夢』。続編『チューリングを受け継ぐ』。

甦るチューリング―コンピュータ科学に残された夢甦るチューリング―コンピュータ科学に残された夢
(2002/09)
星野 力

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 この本は今見たところアマゾンレビューで厳しい評価をしてゐる人もゐるが、しかし日本語で一般人向けに書かれた本はほゞこの本しかなく、この本が果たして来た役割はもっと高く評価されていい。
 私もチューリングについてはこの本に依るところが大きかった。
 
 今までチューリングに関する日本語書籍は寂しい限りであったが、チューリングイヤーの今年2012年、日経BP社から『チューリングを読む』が発売された。

チューリングを読む コンピュータサイエンスの金字塔を楽しもうチューリングを読む コンピュータサイエンスの金字塔を楽しもう
(2012/06/07)
チャールズ・ペゾルド

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 星野氏の本がチューリングの人物像と哲学に重きを置いてゐるなら、こちらの本は数学的コンピュータ的業績やその他の人物、例へば、早世の天才ウォルター・ピッツなども紹介されてゐてまた面白い。

 また、雑誌『数学セミナー』は、2012年7月号で、チューリングの特集を組んだ。

 このやうにチューリングイヤーの今年、日本でも少しづつではあるがチューリングに脚光をあてる動きが出てきてゐる。


・チューリングが遺したもの


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 チューリングが41歳の若さで亡くなってから58年が経つ。
 チューリングはなぜ毒林檎を齧って死んだのだらう。林檎は同じイギリスの天才科学者ニュートンを、そしてチューリングは当然知らないだらうが、後の時代に登場するアップルコンピュータを聯想させる。

 林檎をモチーフとして、チューリングをニュートンに比肩させるのは、さう悪くないだらう。どちらもそれ以後の世界の見方を大きく変へた人だ。
 チューリングは、(ノイマン型)コンピュータには計算できないことがあることを示してみせた。ゲーデルとは別のやり方でヒルベルトの夢を打ち砕いた。そしてチューリングが予見したり考へたりしてゐたことの多くが、21世紀になった今でも同じ課題として残ってゐる。
 近年の人工知能の発達が、多くの人々にチューリングテストを思ひ出させてゐるのはその一例である。それこそアップル社が開発した「Siri」などは今はまだ玩具レベルかもしれないが、この先どのやうな知能を備へていくのだらうといふ関心を抱かせる。

 現代において、コンピュータを使ったことがないといふ人は日本にはほとんどゐないだらう。そして大多数の人が仕事場や家でパソコンを使ってゐる。
 チューリングはコンピュータの原型を考へたが、チューリングがゐなかったとしてもコンピュータがこの世界に登場しなかったといふことはないだらう。たゞ登場の時期が少し遅れたかもはしれない。
 今年2012年がチューリング生誕100年といふことは、現代にはまだチューリングが活躍してゐた時代から生きてゐる人がたくさんゐるといふことだ。チューリングが生きてゐた頃は、コンピュータなんて一般の人たちは誰も関心を持ってゐなかっただらう。何しろそんなものは見たことも聞いたこともないし、空想の産物の話をしてるほど暇ぢゃない、と当時の人は言ったことだらう。
 だが、かうして誰もがコンピュータを使ふ時代が数十年後には到来した。「目の前にないモノの話をしてもしやうがない」とか「現実的ぢゃない」と言ふのは、あまりにもつまらない物言ひだ。
 現代の私たちは日々コンピュータのトラブルやハプニングの対応に追はれ、やれ「ファイルが開けない!」、「パソコンが固まった!」、「データが消えちゃった!」などと悪戦苦闘してゐる。チューリングは直接パソコンを作った人ではないが、しかしチューリングが構想してゐたものの末裔に後世の私たちは善かれ悪かれかうして振り回されてゐるのだから、「チューリングが何考へてるかなんて知らない」などといふ無関心な態度は取れないはずである。
 少なくとも私は無関心ではゐられない。そして今の時代の科学者たちが行なってゐることだって、きっと老後の私を善い方向にか悪い方向にか振り回すはずなのである。

 コンピュータの問題だけではなく、「自己組織化」、「自己参照」の問題、脳をコンピュータと見做す問題等、チューリングが先取りしてゐた問題はたくさんある。そして遠くない将来、生命科学とコンピュータ科学はもっと融合し、人間の在り方は変はっていくだらう。その時になって、チューリングが言ってゐたのはかういふことだったのか、と知ることがあるかもしれない。

 星野力氏は、現代の私たちは今もチューリングの掌の中にゐると言ふ。
 私は、その中には未来を暗黒にする鍵も明るく切り拓く鍵もあるやうな気がする。

チューリングは二〇世紀の数学者で終わることはないだろう。二一世紀においても、彼の存在の大きさが増えることはあっても減ることはない。なぜなら、チューリングの残した多くの課題にはまだほとんど答えられていないから。(前掲、『甦るチューリング』)



 チューリングが味はったその甘い林檎の味、苦しみの林檎の味は、これから先の時代も何度もよみがへってくることだらう。