暫定龍吟録

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30歳までニート!鴨長明という人-『方丈記』800年記念-

 テレビで芸能人が「金持ちの家に育ったやつはええなあ」と、裕福な家庭に育った人を羨んでいるのを偶に見かける。そして、自分がどれだけ貧しい少年時代を過ごしたか、そこからどれだけのハングリー精神でがんばって今の成功を掴んだかを力説する。

 しかし、私はそういった話にはあまり共感するところがない。子ども時代に貧しくても、今は成功して家族もマイホームも持ってこうしてテレビに出て稼げているのなら、そっちのほうが「いいなあ」である。
 それとは逆の人生、子ども時代にいくら裕福な家で育っていても大人になってから転落して行く人生の方がよっぽど辛い。

 「だから金持ちのボンボンは駄目なんだよ。ガッツがないから」と彼らは言うかもしれないが、しかし、世の中、裕福な家庭の子どもは大人になっても当然のように裕福になり、貧しい家の子はそのまま貧しくなる、という例の方が多い。

 『方丈記』の作者として知られる鴨長明(かものちょうめい)の人生は、社会的地位や経済面から見れば、まさに転落していく一方の人生だった。

 今日は、そんな鴨長明の失意の人生を振り返ってみたい。
 

鴨長明の人生
 
 1155年、京都の下鴨神社の禰宜の子として生まれた長明は、いわゆる裕福な家の子どもだった。当時の貧しい家の子よりもずっと衣食住に不自由しない生活を送っていただろう。褒めそやされて育てられて、なんとわずか7歳にして「従五位下」の称号を得る。
 しかし、『日本人なら知っておきたい日本文学』の言葉を借りれば、長明はこの7歳の時が「人生のハイライト」。生涯、「従五位下」より位が上がることはなかった。

 長明の夢はお父さんと同じような神官になること。そして自分も大きくなったらお父さんと同じような人生を歩むんだ、就職して社会的地位も得て、大きな家を建てて、結婚して子どもができて、あたたかい家庭を築いて幸せな生活を送るんだ。漠然とそう思っていたに違いない。

 しかし18歳の時、これから社会に出ていくという時に、父親が亡くなる。有力な庇護者であった父を亡くしたことで神社への就職がかなわず。ショックを受けた長明は自殺を思う。(死ななかった。)

 失意の内に20代を過ごすことになるが、長明の20代はよく判っていない。
 特に、長明の恋愛、結婚、家族のことなどは、かなり謎に包まれている。結婚生活だけではない。恋人の存在どころか、友人・知人等、プライベートなことはかなり不明である。

 家はおばあちゃんの家(大邸宅)に住まわせてもらっていた。ここでおそらく結婚して子どももいたらしいが、肩身は狭かった。なぜならニートだったから。働きもしないで毎日家にいる男なんて今も昔も女からは不評だろう。長明もニートのままでいいと思っていたわけではなくて、いろいろ就活もしていたのだろうが、うまく行かなかった。しかしいくら広い家とは言え、毎日家の中にいる夫に妻のイライラは爆発しただろう。おばあちゃんもニートの孫をいつまで住まわせておかなくてはいけないのか、というイライラが募ったのだろう。
 そうした家庭内不和が限界に達して、30歳にして長明はその家を追い出された。事実上の離縁。一気に家も妻も子も失った。

 しかたなく、長明は自分で鴨川のほとりにおばあちゃんの家の10分の1サイズの家を建ててそこに住む。長明も日々、何の努力もせずに遊びほうけていたわけではない。自分の得意なことは「琵琶と和歌だ」と認識していた長明は、その才能を伸ばして何とか世間に認められようと、日々自分磨きに励んでいた。
 その甲斐あってか、33歳の時に『千載和歌集』というわりとメジャーな歌集に自分の歌が一首入選したときはとても喜んだ。初めて自分の才能が世間に認められたような気がした。

 それからも師匠に付いて得意分野の音楽(琵琶)と文学(和歌)の研鑽に励んだが、なかなか世間には認めてもらえなかった。
 だがついに、46歳の時に和歌所の寄人としての就職が決まった。46歳にして初めての就職!

 「プライドが高い人は自分はこんな下っ端な仕事はできませんとか言って仕事を選んでるから駄目なんだよ。これだけ不景気で仕事がない時代なんだから、自分はどんな仕事でもやります!っていうぐらいの意気込みじゃないと」と言う人がいるだろう。たしかに長明は自分の得意分野である音楽か文学に関する職に就けたらいいなあとは思っていただろう。しかしこれはいつの時代でも誰もが思うことだ。だが長明は決して「それなりの地位の高い職に」などとは思っていなかった。長明は地下歌人で昇殿を許されない低い身分であった。今の感覚だと、公的機関の非正規の職員みたいなものだ。正規の職員たちに比べて扱いは下だった。

 でも、それでも、長明はこの就職が決まって嬉しかった。そして事務主任の源家長によれば「めちゃくちゃまじめに働いた」。自分を雇ってくれた恩に応えようとしていたのだろう。

 40代は、得意の和歌で勝負ができる、少しだけ楽しい時代だった。
 長明は貴族としては和歌所に集まった他のエリート宮廷歌人たちより身分は低かった。和歌には自信があったけど、彼らの新しい歌風には少しびびった。時代の流れは「新古今流」だった。
 自分がプライドが高すぎることは自分でもよくわかってる。そのプライドに拘りすぎると、時代の波に乗れなくて出世できない。新古今プロジェクトの中心メンバーは藤原定家である。定家流の新しいスタイルの歌が今は流行っているのである。だから長明は自分の今までの拘りは捨てて、最新の歌のスタイルを真似てみたりする工夫をした。プライドも捨てて、とにかく世間に「ウケる」ことが必要だと思った。その結果、新古今和歌集には長明の歌は十首、入選した。

 ああ、頑張っていればいいことあるな。私の人生、少しは良くなってきたのかな。

 そして50歳になった時、河合社のポストが空いた、という話が舞い込んできた。河合社は下鴨神社の摂社。若い頃からのずっと第一希望だった就職先である。もちろん正職員である。ああ、やっと私の人生が好転し始めた。やっぱり生きていればいいこともある。18歳の時に死んでなくてよかった。
 内定が出た。後鳥羽院からの推薦状までいただいた。日頃のまじめな働きぶりを後鳥羽院が評価してくださったのだ。やっぱりまじめに頑張っていれば、見てくれている人はちゃんと見てくれている。

 だが。
 定員1名のポストに対して、もう一人の志願者が「長明は相応しくない」とかいろいろ言って、就職を勝ち取ってしまった。

 長明、大ショック。今度はもう立ち直れないほどの大ショック。
 そりゃそうだろう。安定した職へ就くことは長年の夢だったのだ。しかも、職に就いていなかったことで自分は家や家族まで失っているのだ。そうした暗い過去とようやく決別することができると思っていた。もう就職は目の前まで来ていた。今度は99%確実、周りの人もみんなそう言ってくれていた。何より後鳥羽院の推薦状までもらっていた。それがまたしても目の前で掌からするりと零れ落ちて行った。

 あまりに落ち込んでいる長明を見た後鳥羽院、「今回は残念だったけれど、でも君のために新しいポストを新設したんだ。第一希望のところじゃないけど、その職に就いて頑張ってみたらどうかな。そうしてればまたいつか話がいい方向に進むかもしれないし」。
 「いつかいつかって、私はもう50なんです!残りの人生もそんなに長くないんです。下手な慰めは要りません」と長明が言ったかどうかは分からないが、これ以上はないというほどに落ち込んでいた長明は、後鳥羽院の厚意を拒絶して失踪。京都の街から姿を消した。

 出家することにしたのである。だが、30歳の時に家も家族も失っていたのに今さら出家というのもなんかちょっと変だった。なので俗世間との関わりをさらに断つということを形として示すために、京都の都心を出て、郊外の大原という山の中に住むことにした。
 と言っても、大原はけっこう都心との人の往来も多くて完全に孤独になれる場所ではなかった。

 それで55歳の頃、さらに山の方の日野というところに引っ越した。ここに小さな庵を建てた。広さは四畳半ほど。30歳の時から住んでいた鴨川の家の100分の1。おばあちゃんの家の1000分の1。

 この小さな「方丈(四畳半)」の家に住んで俗世間との関わりを断っているつもりだったが、鎌倉に就職口があるかもしれないという話が舞い込んできた。鎌倉!新しく幕府が開かれたばかりの新天地鎌倉!そうだ鎌倉に行こう!もう時代は京都から鎌倉に移っているんだ。鎌倉に行けば仕事があるかもしれない。

 長明ははるばる鎌倉まで行って、3代将軍源実朝の面接試験を受ける。

 結果は不採用。

 失意に打ちのめされて京都に帰る。

 そして方丈の庵に籠って『方丈記』を書き上げる。

 それから四年ほどして62歳で亡くなった。


まじめな人、長明

 ここからはちょっとまじめな話。

 「30歳までニート」と書いたが、実際には長明が何歳までニートだったのかは分からない。30歳まではずっとおばあちゃんの家にお世話になっていたわけだが、その後もどうやって生計を立てていたのかは分からないから、フリーターみたいな感じだったのだろう。

 長明のその自由な生き方を知って、「長明は世間の束縛を逃れて自由になりたかったのだ」と言う人がいる。私はその考え方には反対である。
 むしろ長明は世間一般の人並みの暮らしを求めていた。本当に自由になりたかったのなら大原などという中途半端な山中に住まないはずだし、50歳を過ぎても鎌倉まで就活みたいなことをしに行っているのも実社会指向がある証である。長明は、お父さんと同じように、普通に就職して結婚して家を持って、そうした普通の生活を送りたいと思っていたはずだ。

 長明は、よく西行に比較される。
 たしかに山の中の庵に隠居して琵琶を弾いていれば「風雅ですなあ」と思われるのも無理はない。たしかに長明には音楽や文学の教養があったし、そういうことを嗜んではいた。それで昔から今まで多くの人が長明のことを西行のような「風流な趣味人」と解した。
 たしかにそういう一面はある。だが、「風流な趣味人」と思われるのは、長明本人は不本意であろう。
 長明の人柄の本質は、あくまでも「まじめ」である。
 好きでニートでいたわけじゃない。好きで独身でいたわけじゃない。

 長明は出家したとは言っても実社会との関わりを持ち続けていたし、外面的には完全なる出家ではなかった。だが内面的には、そこらの坊主よりもずっと求道的で自分に厳しくまじめだった。『方丈記』の最後の方で、山の静かさや小さな家に拘ることさえおのれの醜い欲望の表れではないか、と自問しているのはまさに長明の「まじめ」さが窺えるところである。


方丈は失意の象徴

 私はかつてほんの僅かな期間だが京都の下鴨神社の近くのアパートに住んでいたことがある。広さはたたみ四畳半。まさに「方丈」の家だった。
 近所の下鴨神社の糺の森をよく散歩した。長明が愛した糺の森。今も当時と変らぬ森閑な静謐がそこにはある。私は長明の思いに思いを馳せた。長明は糺の森が好きだったろうが、同時に苦い思い出の地でもあったはずだ。

 日野の山中に結んだ方丈の庵は、けっして“数寄の結晶”などではない。それは“失意の象徴”であり“まじめの表象”である。

 長明は「孤独を愛した自由人」などではけっしてない。寂しがり屋だった。方丈の庵に琵琶などを持ち込んだけれども、それは風流のためというよりは、音楽でもなければとても寂しさに堪えられなかったからだ。


才能はあるのに生き方下手

 長明は音楽や文学の秀でた才能があった。いや、秀でてたなどというレベルではない。『方丈記』はこうして800年間も多くの人に愛読されてきた。歴史の教科書に名前が残るのは相当なレベルである。

 だが、生き方下手だった。
 長明の人生を見ていると、もっと良い人生、楽な人生を送ることができただろうにと思えるところがいくつもある。人生の数々の分岐点で、自ら悪い方、自分を苦境に追い込む方を選択してしまっているように見える。
 こうした選択も、おそらく長明のまじめな性格がそうさせている。
 もし長明がまじめではなくて、もっと貪欲な性格の持ち主だったら、いくつかの就職の場面などにおいてライバルを蹴落として就職できていてもおかしくはなかった。

 才能はあるのに、とことん生き方が不器用。この要領の悪さが長明を苦しめた。
 そしてもう一つ長明を苦しめたものは時代である。


時代の変化と「無常」

 なぜ長明は「無常」と言ったのか。それは長明が生きた時代と大いに関係がある。

 長明が生きたのは1155年から1216年。鎌倉時代が始まったのが1185年から1192年頃。つまり平安時代から鎌倉時代に世の中の構造が大きく転換する時代を生きた。現代の歴史区分でも平安時代までは「古代」だが、鎌倉時代からは「中世」である。
 それまでの貴族が安定していた時代から変わり、同時代の慈円が言ったように「武者の世」になったのである。だが、昔ながらの伝統の家柄を重んじる風習などはまだ残っていて、貴族としての位は下っ端だった長明はそうした旧習にも苦しんだ。
 結局、長明は旧い社会システムにも新しい社会システムにもどちらにも救われなかった。どっちつかずの変化の途中の時代であった。

 長明は子どもの頃、漠然とお父さんと同じような人生を歩むんだと思っていた。お父さんのお父さんも、そのまたお父さんも、長い変化のない時代に、ずっと似たような平凡な人生を送って来た。だが自分は実際にはお父さんとはまったく違う人生を歩むことになった。そのことが長明に「無常」と言わせたのだと思う。時代も社会も人生もすべてはいつまでも「常態」ではない。そのことを誰よりも敏感に感じ取っていた。

 出家の動機の一つとして、岩波文庫版方丈記の解説に載っている市古貞次の次の文はもっとも納得のいくものである。

身分階級が固定し、重代が尊重された社会、才能があってもそれを思うようにのばし得ない環境などに対する抗議の意識が底に流れていたに相違ない


 そしてそれは出家の動機だけでなく、『方丈記』が書かれた動機でもあるだろう。


人間関係を築くのが下手だった

 長明はなぜなかなか就職できなかったのか。
 それはやはり「生き方が下手」だったからなのだが、では、どういうところが下手だったのだろう。

 それを考えるヒントが無くもない。

 長明が書いた文章には、圧倒的に個人名が少ない。もっと関わりのあった人の名前をたくさん書いていてもおかしくはないのだが、全然書いていない。長明が書いてないだけではなく、長明が関わったであろうはずの相手の日記などにも長明の名前が出て来ない。

 これはどういうことか。おそらく、長明は人間関係を築くのが下手だった。長明の文章には、友人・知人・恋人のことがほとんど書かれていない。あまりいなかったのだろう。
 人脈を作ることが下手だったことと、なかなか就職できなかったこととは少なからぬ関係があるだろう。

 そして長明が関わった人物は、後鳥羽院(1221年、隠岐島へ配流)や源実朝(1219年、鶴ヶ岡八幡宮で暗殺)など、いわゆる「悲運系」の人が多い。類は友を呼ぶのであろうか。何か引かれるところがあったのだろう。


折々のたがひめ

 長明が『方丈記』に書き残した「ヲリヲリノタカヒメ」。

 この「折々の違ひめ」を解明することは長明からの課題だと思っている。

 人生はどうしてこうも思いとは違っていくのか。

 食い違い、擦れ違い、あの時あの瞬間のちょっとした行き違いが決定的な今を生む。環境や時代の影響を受け、人生は本意から遠ざかる。

 自分の人生だけではない。多くの人の人生がそうなっている。長明が『方丈記』で自然災害に苦しむ人々に寄せる目は、この人たちはなぜこんなに苦しまなければならないのか、という思いと、もっとうまくやれるはず、という思いの表れではないか。

 しかし、どうしたらうまくいくのかは分からなかった。自分でも抗い難い「たがひめ」を積み重ね、失意を重ねていった鴨長明。

 そんな長明だからこそ書けた。『方丈記』はそういう書だ。

 長明が残した課題は重い。




 この記事は、下記の本にインスパイアされて書いた。

日本人なら知っておきたい日本文学 ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典日本人なら知っておきたい日本文学 ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典
(2011/08/25)
蛇蔵、海野 凪子 他

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 また、下記の本を参考にした。

閑居の人 鴨長明 (日本の作家 (17))閑居の人 鴨長明 (日本の作家 (17))
(1984/10/10)
三木 紀人

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