暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

努力とは何か

 「努力してない」

 「まだまだ努力が足りない」

と言はれる。

 努力とは何だらうか。

 子供の頃、親から「勉強しなさい」と言はれた。勉強は嫌ひだった。成績は良かった。成績が良いのなら勉強しなくてもいいではないかと思ふが、親からすれば「がんばってない姿勢」が苛つくものだったのかもしれない。
 テストで100点を取りたいとか、クラスで1番になりたいとかは思はなかった。「勉強なんか好きな奴だけすればいい」と思ってゐた。今でもだいたいさう思ってゐる。

 私は結果を出さない人間だった。「勉強がよく出来る」といふことと「結果を出す・結実する」といふこととは違ふ。

 以前、テレビで全国模試1位の浪人生といふ男の子が出てゐて、スタジオの芸能人たちから「全国1位の人がなんで東大に受からなかったの?」と質問攻めにあってゐた。その男の子は願書の提出期間に願書を出しそびれたらしい。それで浪人することになった、と。

 普通の人が聞いたら呆れるやうな話かもしれないが、私はさもありなんと思った。東大に入るのが難しいのは何もテストが難しいからばかりではない。願書の提出期間を忘れてゐたり、試験日に高熱でダウンしてしまったり、受験票を忘れたり、おぢいさんに道案内をしてゐる間に遅刻したり、他にもいろんな障礙や困難を乗り超えなければ入ることはできない。障礙者で、東大側のバリアフリーや受け入れ体制が整ってゐないために、入学を断念せざるを得ないこともあるかもしれない。

 東大に入ることに限らず、「結果する」「結実する」といふのは難しいことなのだ。

 私は子どもの頃から、この「結果する」といふことに関しては、また別の能力のやうなものが必要なのではないか、といふ気がしてゐた。そのことに気づいてからは、なほのこと、一生懸命勉強するのは違ふといふ気持ちが強くなっていった。

 それでも私は努力してないわけではなかった。私は私なりにがんばってゐた。たゞそれは、他人の努力の形とは違ってゐたかもしれない。他人から見れば、それは「努力してない」といふことだった。

 なぜ?私はこんなにがんばってるのに、なぜ「努力してない」と言ふの?

 私は確かに「成功」とか「良い思ひ」をしてゐなかったので、傍から見ると苦しんでゐるやうに見える。しかしそれは他人から見れば「努力」をしてゐるのではなく「苦労」をしてゐるといふことだった。

 大学時代は成績が良かった。授業への出席率は誰よりも高かった。私よりも成績が悪く、授業を適当にサボってゐた多くの“普通の”学生たちは、四年で普通に卒業していったが、私は大学を四年で卒業できなかった。

 「努力してない」とか「努力が足りない」と言ふ人たちは、この事実をどう説明するのだらう。
 月曜の1限から土曜の2限まですべての授業に真面目に出席してゐた私は、授業を適当にサボってゐた学生たちよりも努力が足りなかったといふのだらうか?

 努力には「すべき努力」と「しなくてもいい努力」がある。しなくてもいい努力は、そのまゝ「苦労」や「徒労」になる。
 努力には筋がある。筋の合った努力は、する甲斐がある。筋の違った努力は何ものも結果しないばかりか、努力そのものすら認められない場合が多い。
 自分ではこんなにがんばって努力してゐるつもりなのに、他人からは「努力が足りない」と言はれてしまふ人は、努力の筋が違ってゐる可能性が高い。

 しかし私は抑々、人の努力など誰にも測り得るものではない、と思ふ。その人が誰も見てゐないところでこっそりと努力してゐることを誰が知ってゐよう。
 だから軽々しく他人に向かって、「努力してない」とか「努力が足りない」などと言ふべきではないのだ。
 すでに筋の違ふ方向への努力を始めてゐる人に、そうした言葉を投げつければ、その人をますます徒に追ひ詰め苦しめることになる。

 厄介なのは、所謂「成功者」たちが、自分が成功したのは自分自身の努力のおかげ、と思ってしまってゐるところだ。だから成功を得られずに苦しんでゐる人に対して、「もっと努力しろ」と言ってしまふ。

 「無駄な経験など一つもない」と言ふ人がゐるがあれは嘘だ。もし今ある程度の成功を収めてゐる人であれば、それまでのすべての経験はそこへ至る重要な欠くべからざるステップだと錯覚する。


 「努力」の取り扱ひには細心の注意が必要だ。にもかゝはらず、大雑把で乱暴な「努力論」が横行してきた。

 いつかまたもう少し詳しい「非努力論」を書きたいと思ってゐる。