暫定龍吟録

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高偏差値、低内申の人

 私のことなのだが。

 「高偏差値、低内申」で苦しんでいる人は世の中に結構いると思うのだが、あまり事例が集められなかったので、自分のことを交えて話そう。

 中学時代の私は「高偏差値、低内申」だった。
 東京の区立中学に通っていたが、どこの県でもだいたい学力の測り方は、偏差値と内申だと思う。

 偏差値というのは、例えば全国一斉の学力テストなどを受ければ、平均からどれだけ遠ざかっているかを表す数値として示される。内申というのは、いわゆる通知表(通信簿)のことだ。

 頭がいい人は偏差値も内申点も高く、頭が悪い人は偏差値も内申点も低いと思われがちだが、たまに偏差値と内申点の成績が乖離している人がいる。

 私は偏差値は高かったが、内申点は極端に低かった。通知表は一般的な5段階評価だったが、「5」や「4」は全然無く、「2」と「3」のオンパレード。「1」を付けられる人は滅多にいないので「2」は事実上、最低の成績ということである。学年最低レベルの成績だったと思う。

 そのことで困ったことがあった。
 高校受験である。

 当時の東京都の場合、私立高校は当日の試験一発、都立高校は当日の試験が50%、内申点(調査書)が50%というところがほとんどだった。
 地方では私立高校は少ないし公立の高校も数が限られているかもしれないが、東京では私立も都立も選択肢はたくさんある。
 進路相談のとき、担任の先生は「あなたは私立だったらどこを受けてもいい。でも都立は、、、」と言って言葉を濁した。
 私は家が貧しいのでできれば都立に行きたかったが「申し訳ないけどあなたの内申点では行ける都立は、、、」と言って先生が提示したのはいわゆる「底辺校」と呼ばれる学校だった。

 私は悩んだ。私立だったら進学校に行ける。都立だったら底辺校。15歳には重すぎる苦渋の選択だった。

 テスト(偏差値)重視の私立、内申重視の都立、という当時の制度はさらに私を苦しめるようにできていた。

 私は9教科の中でいわゆる「主要教科」と言われるものほど得意だった。つまり主要3教科の英・国・数が一番得意で、次に社会・理科、そしてその他の4教科という順番。技術と家庭科が一番苦手だった。
 ところが、当時の東京都では、この「その他4教科」、すなわち体育、音楽、技術、家庭科、の成績は1.3倍されて高校に報告されるルールになっていた。
 つまり、都立高校はただでさえテスト軽視・内申重視なのに、その内申も英国数社理より体音技家を重視するというシステムでますます私を苦しめた。


 偏差値と内申の違いを一言で言うと、「客観」と「主観」である。
 全国一斉学力テストのようなものでもテスト問題を作っているのは人間だから、主観がまったく無いわけではない。だが内申はほぼ主観だと言っていい。“先生の”主観である。
 当然、先生へのアピールが下手な子の内申は低くなる。先生が見てないところでどんなに真面目に掃除をしていても駄目である。

 そもそも体育などの場合、バスケやサッカーなどの球技あるいは集団競技においては、おとなしい生徒のところにはボールは回ってこない、パスされない。つまりボールに触れないから上手いか下手かは判断しようがないはずだが、先生はとにかく「活躍してない」と判断する。
 音楽も技術も家庭科も、要はどれだけ上手に立ち回るかである。そして日頃の生活態度なども、いかに先生に良く見られるかが鍵となる。


 しかし現代では、この高校入試制度もマシになってきているようだ。それは、2002年に通知表の5段階評価が「相対評価」から「絶対評価」に変わったことによっている。つまり、「今学期はみんな頑張ったから全員“5”にしてやったぞ」などということが可能になったということだ。逆に全員「1」か「2」ということも可能。先生の裁量の幅が広がり、どうとでもなるようになった。
 このことで都立高校側が内申をあまり当てにできなくなり、以前は当日の試験と内申の割合が50:50だったのが、最近では70:30ぐらいの比率に設定している学校が多くなっているらしい。
 できれば私の中学時代にそうであってほしかった。

 この「高偏差値、低内申」という特徴は、その後も私の人生にずっと暗い翳を落としている気がする。というのも、世の中には意外と客観評価というのは少なく、誰かの主観で評価される場面が多いからだ。

 中学時代、「2」と「3」ばかり並んでる通知表を持って帰って親に溜め息をつかれるのが常だった。もちろん「偏差値70」と書かれた学力テストの成績表も見せていたけれども、親は偏差値世代ではないので偏差値の「70」という数字の意味が解らず、「100点満点の70点」ぐらいに思っていたようだ。

 国際ピアノコンクールで金賞をとる人は「ピアノが上手い人」じゃない。世界トップレベルの弾き手が集まっている中で「誰がどう聴いても“客観的に”一番上手い」などということがあり得るだろうか。
 審査員の心に響く、訴えかける演奏をできた人が金賞をとるのだ。逆にどんなに高度な演奏テクニックを持っていても、審査員の心証を損ねてしまったら金賞をとることはできない。

 世の中を渡っていけるのは内申点が高い人である。数多の主観評価の場面で好成績を収める人が「勝ち組」となっていく。

 内申というのは、さまざまにある評価方法の中の一つでしかない。通知表の成績が悪かったからといって子どもを叱ることはない。

 IQ(知能指数)というのも「IQが高い人は頭がいい」と思われているが、これも一つの尺度でしかない。例えば一般的なIQテストは「ひらめき力」とでも言うべき能力を測ることに偏っていて、知識量、その人が物知りかどうかということは測らない。

 また、当日の「テスト」にも問題がないわけではない。大学入試センター試験やTOEICなど、多くの日本人が受験するテストにもまた幾つもの欠陥がある。しかしその批判はまた別の稿に改めよう。

 「高偏差値、低内申」の話はいつかしなければと思っていて、今までなかなか書く機会を得ずにいた。
 この問題が重要なのは、なにも高校入試制度だけの問題ではなく、社会全般におけるさまざまな場面での人間評価が「内申型」で行われている問題に繋がってくるからだ。多くの人が「できるかできないか」を問題にしていながら、それをより客観的に測る努力には傾注せず、それどころか関心すら示していないように見える。


 一人でも多くの人に「高偏差値、低内申の人」の存在を知ってもらいたくてこの記事を書いた。
 そして「高偏差値、低内申」で今も苦しんでいる人たちにこの記事が読まれることを願う。