暫定龍吟録

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和辻哲郎とソーシャルネットワーク ―SNSはなぜ流行ったか―

 今日3月1日は和辻哲郎の誕生日。
 なので、和辻哲郎とソーシャルネットワークの関係について書かうと思ふ。


SNSはなぜ流行ったか?

 2004年頃から日本ではmixiが、2007年頃からはFacebookが世界中で大流行した。
 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は何故こんなにも流行ったのだらう。
 それは、SNSは新しい人間関係のユーザーエクスペリエンスを提供できたからではないか。多くの人にとって「ソーシャルネットワーク」は新鮮に感じられたのではないか。

 「人間」といふ言葉はもともと「世の中、社会」を表す意味の言葉だった。仏教で六道と言ふ時の天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の中の人間も「(この)世の中」といふ意味である。
 それが次第に人間社会に住んでる「人」のことも「人間」といふやうになった。
 欧米の個人主義的世界においてはパーソンpersonは、かぎりなく「個」の人、といふ性格を持ってゐる。
 しかし和辻は周囲の人との関はりなく「人間」は存在するものではない、と了解してゐる。そして日本ではむしろそのやうな人間了解の在り方がスタンダードであった。

しかし「人の間」すなわち人間関係を単に「人」の意に解するという「誤り」は、あまりにも思索能力の弱さを示しはしないであろうか。


人間は単に「人の間」であるのみならず、自、他、世人であるところの人の間なのである。


homoからその格の変化に添いつつhommmeとonとを作り出したフランス人に至っては、homoにおける右のような両面の意味を引き離して別語としてしまった。同様にドイツ語においても、Mannの形容詞形から出たMensch(人)は、同じ語から出たman(世人)と、全然別の言葉にせられている。英語はこのmanを人の意に用いるとともに、そこから世人もしくはある人の意味を全然閉め出している。


人間とは「世の中」自身であるとともにまた世の中における「人」である。従って「人間」は単なる人でもなければまた単なる社会でもない。

(以上、『人間の学としての倫理学』より)

 戦後、欧米から入って来た「個性」を重視する思想が日本でも流行し「他の誰でもない私」、「私は私」、「私は佐藤さんの奥さん、ではない。佐藤◯子といふ一個の人間である」といふ考へ方が広まった。
 さうした人間の捉へ方に慣れてゐた人々にとって、ソーシャルネットワークは新しい人間の在り方だった。
 ソーシャルネットワークは和辻風に言へば「人倫的ネットワーク」、「人倫に基づいた人間関係」だった。

 多くの人がこの新しい人間存在の在り方に魅了されSNSを使ひ始めた。
 しかしFacebookに代表されるSNSを使ってゐるうちに、だんだん不都合も感じるやうになってきた。


いくつもの「顔」

 若者しか使ってゐない初期の頃は良かったが、大人たちも含めすべての人がFacebookを使ふやうになると困った問題も出て来た。
 この友達とのやり取りをウチの親も見てるの?会社の上司も見てるの?
 最近、日本でもよく聞く、会社の上司からフレンド申請された場合、受けるべきか断るべきかといふ問題だ。
 なぜ、かうしたことが問題になるのか。
 それはやはり人々が、学校での顔、会社での顔、家での顔、を使ひ分けてゐたからに他ならない。
 家での自分(のキャラ)を会社の人に見られるのは嫌なのだ。

 一人の人間はいくつもの顔を持ってゐて、それを所属するサークル(コミュニティ、クラスタ)ごとに使ひ分けてゐる。
 どんな時にも不変な確たる自分といふものがあるわけではない。

 このFacebookが抱へてゐた問題を解決しようとArchana Patchirajanが2012年に新しく作ったSNSがHmmmだった。Hmmmでは幾つもの人格を使ひ分けられるといふ点が売りだった。
 しかしHmmmがやらうとしてゐたことはすでにGoogle+が実現してゐたといふ見方もある。

 もっとも欧米世界にもかうした幾つもの「顔」がなかったわけではない。
 “person”は元々“persona(ペルソナ、面)”であった。
 再び和辻の言葉を引かう。

人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格等もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。しかるに人は社会においておのおの彼自身の役目を持っている。己れ自身のペルソナにおいて行動するのは彼が己れのなすべきことをなすのである。従って他の人のなすべきことを代理する場合には、他の人のペルソナをつとめるということになる。そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。かくして「面」が「人格」となったのである。(『面とペルソナ』)



和辻の透徹した眼を道標に

 かうした人間関係の在り方はかつて誰もが感じてゐたことである。しかしそれを明瞭な言葉で書き記してゐるところに和辻の先見性を感じる。
 ソーシャルネットワークは、和辻が80年近くも前に看破してゐた人間関係の〝再到来″とも言へる。
 和辻が数十年前に言葉によって明瞭化し、Facebookがインターネットで可視化したソーシャルネットワーク。
 これからSNSといふツールが人間関係の世界をどのやうに変へていくのか分からない。ソーシャルグラフはデータマイニングや統計学に絡め取られ更なる苛酷な人間関係を私たちに強いるやうになるかもしれない。
 
 さうして人間関係に困ったり悩んだりした時に、ふと立ち止まって和辻哲郎を振り返りたい。
 和辻は人と人との「間」や「中」の広がりを大事にした。これはソーシャルネットワークを構築していく上でもぜひ参考にしたい考へだ。これは単に個人のソーシャルグラフの広がりのことを言ってゐるのではない。ネットワークとして間を持てるやうになるかといふ問題である。
 和辻の炯眼が再び人間存在の在り方、ソーシャルネットワークの在り方について何らかの道標を示唆してくれるかもしれない。