暫定龍吟録

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追悼、“マウスの父”ダグラス・エンゲルバートが見た夢

 今の若い人たちは物心ついた頃からマウスを触ってゐただらうから、初めてマウスを触った時のことを覚えてゐないかもしれない。

 私は子供の時に秋葉原の家電量販店の店頭で初めてマウスを触ってみた時のことをうっすらと覚えてゐる。マウスを動かした通りにパソコンの画面上の矢印が動く。これはちょっとした驚きだった。

 そのマウスの生みの親であるダグラス・エンゲルバートが先週亡くなった。

 このことは少なくとも日本ではあまり大きなニュースにならなかった。NHKはニュースとして報じたやうだが取り扱ひは小さかった。ネットでは、ただ「亡くなった」といふ記事はいくつも出てくるが詳しく追悼記事を書いてゐる人は少ない。


すぐれたビジョナリー

 今、IT系の有名なビジョナリーと言へば、ニ年前に亡くなったアップルのスティーブ・ジョブズが有名であり、カリスマ的人気を誇ってゐる。ジョブズの名を冠した本はよく売れる。
 マウスでさへ、ジョブズのアップルが発明したと思ってゐる人もゐる。

 だが、ジョブズの前には、エンゲルバートがゐた。

 エンゲルバートの肩書きは何だらう?発明家?技術者?どれも正解だがどれも足りない。彼は確かにコンピューターや機械を作りはしたが、作ることよりも「アイデアマン」「ビジョナリー」として才覚があった。


インターフェイスの巨人

 「マウスを発明した人」といふのは、エンゲルバートの多大な業績の一部しか表現してゐない。ウィンドウ、電子メール、ハイパーテキスト、かうしたものもエンゲルバートが発明に関はってゐる。

 現代では、「良きインターフェイスとは何か」と言はれたら、ほとんどの人は「老人でも小学生でも、何も説明しなくても直感的に使へるやうなインターフェイスが良いインターフェイスだ」と言ふだらう。
 ところが意外にも、インターフェイスの巨人であるエンゲルバートは必ずしもそのやうには考へてゐなかった。エンゲルバートはマウスを生み出した当時、それを不自然なものと考へてゐたのだ。多くの現代人はマウスを自然で使ひやすいものだと思ってゐるのに。
 だが彼は、多少不自然であっても、それが人間の拡張に繋がるならば作ったらいいだらう、と考へてゐた。
 今から何十年も前、まだコンピューターが大きくて重くて高価で限られた人しか触れなかった時代に、現代のパソコンの基本をなしてゐる多くのインターフェイスを考へ出してゐた。すぐれて先駆的なビジョナリーだった。


認められなかった“変はり者”

 若い頃から「変はり者」と見られてゐた。
 国も時代も違ふので一概に比較して理解できないが、今の日本の文系・理系といふ区分で例へて言ふならば、エンゲルバートばその狭間でどちらにも理解されなかった。
 工学部生だったエンゲルバートが理系仲間のところに行くと、彼らはコンピューター作りには熱心だったが哲学とかそれが社会に齎す影響とかさういった話にまったく無頓着だった。一方、文系学生のところに行くとさういふ話ができたが、彼らにコンピューターの話をしようとすると、「コンピューター?えっ、何それ?」と言はれる始末。どちらの側からも「変はり者」扱ひされてなかなか自分の話を理解してもらへなかった。


すべてのデモの母

 エンゲルバートは時代を先取りしすぎてゐて、同時代の人たちにその価値を分かってもらへなかった。特に1970年代にパソコンの時代が到来してからは不遇で、70年代、80年代とほゞ忘れ去られてゐた。
 エンゲルバートに再び脚光が当たり再評価の動きが出て来たのは90年代。ウェブの時代が到来した時だった。人々はウェブを使ひ出した時、その技術や仕組みの多くが1960年代にエンゲルバートがデモで示してみせた中にほとんど含まれてゐることに気づいた。

 それは、伝説のデモ。

 あまりにも有名なこのデモンストレーションは「すべてのデモの母」と呼ばれてゐる。





ハイパーテキストの父

 エンゲルバートは、単にマウスの父であるのみならず、パソコンの父でもあり、ハイパーテキストの父でもあった。
 50年近くも前に現代のコンピューター社会をかなり的確に思ひ描いてゐた。
 パソコンの父はアラン・ケイかもしれないがそのアラン・ケイに影響を与へたのもまたエンゲルバートである。

 ハイパーテキストに関しては私はテッド・ネルソンの思想に影響を受けたが、エンゲルバートもまたもう一人のハイパーテキストの父だと言へる。

 エンゲルバートはハイパーテキストに関しては皆が共同作業をできるための仕組み、言はばWikiのやうなものを志向してゐたと思はれる。とすれば、エンゲルバートの思想は2000年代のウェブ2.0を先取りしてゐたとも言へる。


人工知能への夢

 エンゲルバートは、「コンピューターと対話する」といふことを考へてゐた。若い当時はそんなことを言っても誰からも笑はれるだけだった。

 エンゲルバートの思想の根幹は「人間の拡張」といふことであり、そのためにエージェントのやうなコンピューターの存在を考へてゐた。

 2011年、アップルはSiriを搭載したiPhoneを発売した。これは、エンゲルバートが夢見てゐた人工知能の一つの結晶、と言へるだらうか。私はエンゲルバートはもっとずっと先を夢想してゐたのではないかと思ふ。現代のテクノロジーのあり様は、エンゲルバートが1950年代に考へてゐたレベルにすら追ひついてゐないのだ。

 今はアップルのiWatchやグーグルのGoogleGlassなどが実用化が注目されてゐるが、エンゲルバートはウェアラブルコンピューティングについてすら言及してゐた。


エンゲルバートが見てゐた地平

 私はエンゲルバートの次の話が好きだ。少し長いが引用しよう。

個人が運転する自動車との類似点を考えてみましょう……「自動車の力という技術が我々の生活、都市、学校を作り変えるだろう」と聞かされても特別心をかき乱されるものはいなかったでしょう。それはもちろん、皆が鉄道や蒸気船が我々の生活への影響を強めつつあるという心の中のイメージを持っていたからです。それから車、トラック、フォークリフト、ブルドーザー、モータースクーター、ジープなどが現れました……そして、心を乱されないで聞いていた人々は、自分たちが耳だけで聞いていたことに気づいたでしょう。
自動情報取り扱い装置(コンピュータ)が最初に使われたときは、まず大規模で型どおりに決められた仕事を行う施設の中で使われ、社会に途方もなく大きな影響を及ぼしました。誰もがまったく心を乱されることなく、我々の生活はこの技術によって作り変えられるだろうという説に同意しています。しかし、我々がそれにうなずくとき、果たして本当に聞いているのでしょうか?私は、私たちの社会構造に対して容易にはのみこめないような変化をもたらす、個人が運転する自動車に似たものが、コンピュータの分野にも出現するだろうと言いたいのです。多くの人々が言っているマン-マシン・インタフェースは、機関車の運転席の制御装置(大きなシステムの使命に人が貢献するためのよりよい手段を与えるもの)に相当するものですが、私はブルドーザーの運転席(その力のすべてを個人の仕事に向けるための最大限の便宜を人に与えるもの)に相当するものについてもっと考えてもらいたいのです。(ティエリー・バーディーニ著、森田哲訳『ブートストラップ』より)



 基本的に新しもの嫌ひで機械が苦手な私は、エンゲルバートみたいな人とは相容れないところがある。「考へること」と「作ること」は別だと思ってゐる。好きか嫌ひかと聞かれれば好きとは言ひ難いかもしれない。コンピューターが人間社会に与へる影響といふことで言ふなら、ノーバート・ウィーナーやイヴァン・イリイチの洞察の方が魅力を感じる。しかし、エンゲルバートの言葉には学ぶべきところがいっぱいあるし、そして何より先を見通す力を持ったビジョナリーとしては敬意を持ってゐる。

 2000年以降、突然世間から思ひ出されたやうに、エンゲルバートはチューリング賞をはじめ数々の名誉ある賞を受賞した。長生きしたから偶々これらの名誉に浴することができたが、60、70歳ぐらいで亡くなってたら、つひに自分は世間から理解されなかったといふ思ひを抱きながら亡くなってゐたかもしれない。

 果てしない地平を見通し、人間に、コンピュータに、何ができて何ができないかを見極めようとしたエンゲルバート。彼の思考を辿り直すことで人間や世界のまた新たな行く先が見えてくるかもしれない。


Bootstrapping: Douglas Engelbart, Coevolution, and the Origins of Personal Computing (Writing Science)Bootstrapping: Douglas Engelbart, Coevolution, and the Origins of Personal Computing (Writing Science)
(2000/12)
Thierry Bardini

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