暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

情報と検索

 最近、ちよつといいこと言ふなあ、と思つたのは、芥川賞作家の藤原智美。2008年3月27日のNHKテレビ「視点・論点」に出て、「検索から思索へ」といふタイトルで論じた。

 ところで、同じNHKテレビの4月1日放送「爆笑問題のニッポンの教養」といふ番組に、松岡正剛先生が登場。セイゴオ先生については、改めて説明するまでもないだらう。インターネットで本の書評などを調べたことがある人は、一度はセイゴオ先生の千夜千冊のページに辿り着いたことがあるはずだ。

 「編集工学」で有名なセイゴオ先生だが、テレビでは「現代の知の巨人」と紹介されてゐた。

 私は、セイゴオ先生のことをよく知らない。著作も読んだことがない。だから、あまり批判はできないし、したくもないのだが、上の二つのテレビ番組を見て、私がより感銘を受けたのは、セイゴオ先生の方ではなく、藤原智美の方だつたのだ。

 セイゴオ先生が「知の巨人」であるのはわかる。たしかにさう思ふ。セイゴオ先生ほどたくさんの本を読んでる人はさうゐないだらうし、なによりも見てゐて圧倒的な「知力」を感じる。
 だが、先生の言ふ「編集」とは何であらうか。まさにその「編集」が幅を利かせてゐる現代社会に真っ向から異を唱へたのが、藤原智美の「視点」であつた。

 現代の多くの人間は、インターネットで情報を検索し、収集し、編集し、そして送り出す。切り貼り(コピペ)で作る卒論、「ひな型」や「テンプレ」が出回つてゐるビジネスドキュメント、さういつたものに藤原は疑義を呈する。
 昨今のブログについて藤原は次のやうに言ふ。

ブログの中にもよくよく見ると、ずいぶん引用とか編集されたものがあります。中にはその自分の意見が全然なくて、ただ紹介しているだけのブログもあるんですね。不思議ですよね。自分で何かをやりたい、表現したいと思っているのが、すべて編集と引用であるということは、不思議な状況です。


 このやうなブログを皆さんもたくさん目にしたことがあるのではないだらうか。世界の最新情報を坦々と紹介してゐるだけのブログ。そしてさういふブログが得てしてたくさんのアクセスを集める人気ブログだつたりするのも、また私たちのよく知るところだ。

 最近、「○○が△△できるやうになる技術」とか「○○を3日で△△する方法」などといふフレーズをよく目にするだらう。新書のタイトルやブログエントリーのタイトルに多い。そしてこのやうなタイトルのエントリーが多くの人々に絶大に支持されてゐる。試しに「はてなブックマーク」や「del.icio.us」などのソーシャルブックマークを見よ。そこではそのやうな類のフレーズをたくさん目にすることができる。「超!整理術」などといふ類の本がよく売れる。
 情報を検索して収集して整理して編集する「技術」や「方法」がもてはやされてゐるのだ。さういふ状況に対し藤原は、

情報の整理学とか、情報の技術なんていう言葉が躍っています。そこではできる人間、仕事ができる人間というのは、情報収集がうまくて、効率的にそれをやって、そして、それを人に自分の成果として届けることができる。そういう人が仕事ができる人間だと思われているわけですね。しかし、これはどうも嘘ですよね。


と言ふ。情報をゼロから作る人こそ一番優秀なのだと言ふ。
 
 藤原のこの言葉に私は大いに共感した。
 「編集や技術や方法やメソッドではないのだよ、セイゴオ君!」と藤原は言ひたかつただらうか。
 セイゴオ先生の言ふ「編集」といふものがどういふものであるか私は知らないが、少なくともネット上で藤原智美より松岡正剛の方が人気がある、といふ事実にも一片の危惧の念を感じる。

 「情報の整理学」を言ふ人たちは、さうやつて今まで過去ログを調べるのにかゝつてゐた時間を短縮することによつて、新たな創造の時間が生まれるのだ、と言ふ。検索といふ技術が生まれる前は過去の文献などを調べるのに膨大な時間がかゝつてゐた。そこを一瞬で済ませることによつて、新たな有用な時間を創出できるではないか、といふわけだ。
 一見、もつともな意見だが、はたして私たちはその新しく生まれた時間を有用な創造の時間に充てることができるのだらうか。たしかにそのやうな創造(=アウトプット)が上手な人もゐるが、多くの人はその余剰の時間さへ、更なる果てしない検索に追はれてゐるのではないか。

 こゝに「思索」といふ言葉を持つてきたのは、いかにも作家らしい。言葉の選び方のセンスを感じる。「検索」と「索」の字を掛けてゐてわかりやすく、メッセージとして訴求力がある。

 「検索から思索へ」。


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