暫定龍吟録

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会沢正志斎と現代の「攘夷」 −没後150年記念−

 今年2013年、東京・新大久保での「反韓」デモ行進が大きくニュースとして取り上げられた。「朝鮮人は出て行け」とか、中には殺せと書いた過激なプラカードを持つ人もいた。

 私は新大久保でこのようなデモに遭遇したことがないのでどの程度の規模のデモなのかは分からないが、少なくともニュースとしては大きく取り上げられた。

 日本における、こうした反発行動は韓国と中国に対して、特に韓国に対しては強く見られる。

 このような外国人排斥の動きは、規模や対象となる国の違いはあるが、現代の「攘夷」運動と言ってもいいだろう。
そこで、「攘夷の父」會澤正志齋が今年で歿後150年になるのを機に、その思想を振り返り、現代の攘夷について考察してみたい。


水戸の大学者、會澤正志齋

 江戸後期の水戸の大学者、會澤正志齋が亡くなってから今日で150年になる。

 学生時代に會澤正志齋の『迪彝篇』をよく読んだ。
 會澤と言えば主著『新論』で知られるが、私は学生時代は(そして今も)政治に興味がなかったので、『新論』には興味を持たなかった。


新しかった『新論』

 『新論』は、その名の通り、新しい論だった。
 會澤正志齋は、今では保守の代表のような思想家だと思われているけれども、『新論』は当時としては画期的な、伝統的な儒学の思想からは二歩も三歩も大きく踏み出した新奇な説だった。
 その目新しさと格調の高い文章が多くの人々、特に当時の若者たちを魅了し、あの長州の吉田松陰も影響を受けた。『新論』を読んで感激した松陰はわざわざ水戸まで會澤に会いに行っている。

 この新奇な理論は、当時の老儒たちからは批難の対象になった。あまりにも伝統的儒学の教えからは逸脱していたから。

 どこが新しかったのか。
 簡単に言うと、それは、天皇を持ち出して来たところ。と言っても、天皇に着目するというアイデア自体は国学者や神道家が先にやっていたことだ。その天皇と儒学という二つの価値体系を融合させるというのも、早くは山崎闇斎などがやっている。そこに新たな「國體」を明示したところが斬新だった。
 時代の雰囲気もあった。
 それまでは「国(くに)」と言えば、薩摩とか紀伊とか水戸とか自分の藩を指した。それが相次ぐ外国船の来航により、人々は「日本」という大きな国を意識するようになった。
 日本とはどういう国なのか、と人々が意識し始めたところに『新論』は颯爽と登場した。

 『新論』は密かなブームとなり、日本中の若者たちを虜にしていった。


現代の“攘夷”運動

 現代においてもインターネットが普及し始めた2000年代の初頭頃から徐々に「攘夷」の運きが見られるようになってきた。
 以前は、「ネット右翼(略称:ネトウヨ)」といって、ネットの中だけで見られる存在だったが、ここ数年はネットの世界から飛び出してリアルでも行動しているのが新大久保などでデモ行進をしている人たちだ。
 デモ行進をしている人たちはほんの一部だが、その背景には多数のネット右翼がいる。

 ネット右翼の大半は、韓国や中国を馬鹿にして嘲笑しているだけだが、中にはもっと過激に「韓国人や中国人は日本から出て行け」と言っている人もいる。

 こうした動きは、規模は違うが幕末の攘夷運動に似ている。

 會澤はこういう過激な行動を戒めたのだった。


會澤の『時務策』

 私は学生時代、會澤の重要な短篇を読み落としていた。『新論』を読んだだけで會澤を読んだような気になっていた。

 大人になってから會澤が晩年に著した短篇『時務策』を読み、會澤に対する印象が少し変わった。

 『時務策』は、『新論』に比べてずっと短いし、格調も劣る。名文とは言い難いかもしれない。それはおそらく、桜田門外の変や坂下門外の変を受けての「緊急出版」であったからではないか、と推察する。しかし、だからこそ逆に行間に人間味が感じられて、私は好きだ。

 『時務策』において會澤は開国を説き、過激な行動に出る若者たちを戒めた。

天下ハ天下ノ天下ニシテ一人ノ天下ニアラズ、然ルニ臣下ノ身トシテ、天下ヲ一己ノ私物ノ如ク軽々シク是ヲ一搏ニ抛ントスルハ、臣子ノ心ト云ベカラズ。
(意訳)この国は一人のものではないのだから、まるで私物のようにこの国の運命を博打に賭けるのは、この国の国民の心の在り方ではない。


軽易無謀ニシテ暴虎馮河センハ、実ニ危キ事ニシテ、天下ノ大事ヲ敗ルニ至ルベシ。
(意訳)深い考えも勝算もなくて勇敢に戦おうとするのは、この国の存立を危うくすることになるだろう


と手厳しく批判している。

 当時の若者たちからすれば、會澤は「尊王攘夷」の旗頭、理論的支柱であったのに、その人が突然「開国」などと言い始めたものだから「會澤先生も歳をとって耄碌したのだ」と言ってその変節ぶりを馬鹿にした。

 會澤は本当に「変節」してしまったのだろうか。
 そうではない。會澤は一貫していた。「國體の父」會澤は、國體を重んずればこそ開国を説き、血気にはやった若者たちの軽挙を戒めていたのだ。


右翼思想の三つの大きな欠点

 右翼と呼ばれる人たちの言動を見ていると、その思考には大きな三つの欠点があると私は常々感じている。

 それは、一つは命を軽んじている点。
 二つ目は、勝敗を度外視している点。
 そして三つ目は時宜が外れている点である。

 この三点に対して會澤はすべて答えてくれている。

一旦憤激ノ故ヲ以テ民命ヲ一搏ニ投ジ、元元ノ塗炭ヲ顧ザルコトハ、宸衷ニ於テ忍バセ給ハザランカト、恐多クモ伏察シ奉ル也


 會澤によれば、民命は天皇の最も重んじるところなのだから、もっと大切にしなくてはならない、ということになる。

 また、「愛国心」を持った右翼が意外と勝敗に拘っていない、あるいは無視しているようにすら感じられるのは、昔からずっと不思議に思っていたことだった。
 會澤は、「万一将帥誤テ喪敗」でもしようものなら「尊号ニ瑕疵ヲ生」じ、「国体ヲ辱ルコトコレヨリ甚シキハナカルベシ」と言っている。万が一、勝算なく外国と戦って敗けようものなら尊い日本の國體にきずがついてしまう、ということである。

 そして、時宜の点についても次にように強調している。

戦フベキトキニ非シテ強テ人ヲ殺ントスルハ、不仁モ亦甚シ。海内ノ百姓皆升平ノ徳沢ヲ蒙リ、其生ヲ安ンジテ世ヲ渡ルハ、天下ノ至慶ナリ。然ヲ今、軽易ニ事ヲ生ジテコレヲ兵火ニ苦マシメントスルハ何ノ心ゾヤ


 時宜のよろしき時は戦うべし、戦うべきでない時はいたずらに戦うべからず、と。


會澤正志齋の「國體」とは何か

 つまり、會澤にとっては「國體」が何よりも大事なものであった。會澤の言う國體とは、日本の国のメンツとか、そういうものではなく、国が安定的持続的に安泰の状態を維持していくことだった。
 現代のネット右翼などは、韓国や中国が日本を脅かしていると考えている。竹島をとったり、尖閣諸島をとろうとしたり、歴史認識問題で日本に対して強硬な姿勢をとったり、産業の面でも自動車や家電などで競合して日本の地位を脅かそうとしている。
 韓国、中国にはやられ放題、言われ放題、これでは日本のメンツは丸つぶれ。こうした気持ちが新大久保の「朝鮮人は出て行け」に繫がっているのだろう。

 だが會澤は「外国ヲ一切ニ拒絶」などといってそのことばかりに拘泥しているのは、「国ノ存亡」や「其他」のことを考えていない「一偏ノ論」だと言う。


引き裂かれる會澤正志齋

 會澤の『新論』の思想は、保守性と革命性の二面性を内包していたがゆえに、晩年の會澤は、その両極に引き裂かれる苦しみを味わった。

 晩年の會澤は、幕末の「志士」と呼ばれる過激な若者たちに激昂していた。
 しかし、その若者たちは自分が育てたのである。自分の『新論』を読んで感銘を受けた若者たちが過激な行動に走るようになったのであり、自ら撒いた種でもあった。


理論的支柱は無く、場だけがある現代

 現代に、會澤正志齋に該当するような、ネット右翼たちの理論的支柱となるような人はいるだろうか。どうも、そういう人はいない。
 日本のネット右翼が最も集まっている場所というと、おそらく2chあたりだろうが、ここには特に理論的指導者やリーダーがいるわけでもなく、ただ「場」があるだけである。
 もし論争になった時は、史料や法律などあちこちにソースを求める。
 幕末の若者たちにとって會澤はソースみたいなものだったろうか。「ソースは新論(キリッ」と思っていたのだろうか。

 しかし、會澤正志齋の「國體」から吉田松陰の「大和魂」までの僅かな間に質の変容があった。
 そういうことには、当時を生きている人々はなかなか気づきにくいものだ。

 吉田松陰のことを「先生」と呼んでいる首相は「憲法を改正して国防軍を作ろう」と言っている。はたしてそれは時宜に適ったことなのか。私にはどうしても、今頃?としか思えない。

 會澤にあっては尊王攘夷は徳川幕藩体制をより強固にするためのものであったが、松陰は置いておくとしても、長州の志士の多くは『新論』を「誤読」。いつの間にか目標を「倒幕」へとずらしていった。

 現代にあっても行動や運動はいつの間にか変容していく。しかも元々確固たる支柱があるわけではなく、ただ「場」だけがある状態では容易にサイバーカスケードが起こり、現代人はよほど「元々は何だったっけ?」ということを常に意識していなければ、知らず知らずのうちに雰囲気に飲まれてしまうことになるだろう。

 現代に會澤正志齋みたいな人は必要?
 主義も信念もなくただ流れに乗ってるだけの人よりも、一個の確たる主張を持っている人の方がマシだ。
 だが會澤および水戸学の尊王攘夷の思想は影響力が大きすぎて最終的には制禦を失った。高邁な精神に制禦の理論が付け加わるならばなお強靭であろうが、制禦にはまた制禦に適った人がいるのだろう。それは例えば勝海舟のような人かもしれない。

 會澤は長生きしたために桜田門外の変を見る嵌めになった。だが長生きしていなければ『時務策』が書かれることはなかった。

 會澤正志齋が亡くなって百五十年。

 會澤の苦しみの根源を追究することはあらためてこの国の在り方を考えることになるだろう。


※本文中引用はすべて『日本思想大系 水戸学』(岩波書店)より