暫定龍吟録

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丸山眞男くん(小学四年)に学ぶ大震災

 丸山眞男くん(東京の四谷第一尋常小学校四年生)が書いた震災の作文がすごい。

 思想家、丸山眞男が9歳のときに経験した関東大震災の様子を綴ったこの作文は、関東大震災の貴重な記録となっているばかりでなく、また現代への警鐘として多くの示唆に富む。


地震の揺れと火災の二つが被害の主因であることを見抜いていた丸山少年

 お昼近くなつて来たので、御飯の用意をした。
 すると突然、「ガタガタガタ」と地震がすると同時に、天地もひつくりかへる程の上下動の大地震がした。僕等は皆まんなかにあつまつた。柱がゆれる。かべは落ちる。すすが頭にふりかかる。まるで舟にのつて暴風雨にあつたやうにゆれる。


 丸山少年は、大震災に遭ったときのことを、このようにかなり克明に書き記している。

 この作文は、丸山眞男(当時、小学四年、九歳)が、大正十二年の九月から十月の初めにかけて書いたもので、自分で奥付などもつけて仮綴じし、「本」の体裁を整えたものである。

 丸山少年がすべて自分で考えて書いたとは言い切れないかもしれない。周囲の大人たちが話していた知恵も少しは入っているだろう。新聞やラジオで得た見解も入っているかもしれない。だが、それらの中から何を書くべきかを取捨選択しているのは、やはり丸山眞男である。9歳にしてこれだけ冷静に震災のことを書き残せている丸山眞男に、私は驚嘆を禁じ得ない。

 丸山少年はこの本の「序文」で、「震災ばかりなら、まだよいのに、火災が起り、二つで攻めて攻め立てたので、如何なる帝都もつひに、このやうになつたのである」と書いている。
 後の時代の私たちは、関東大震災の被害が地震動による家屋の倒潰だけでなく、その後の火災による被害が大きかったことを“歴史”として知っているが、丸山少年は震動と火災の二つが大きな被害要因であることを、当時もうすでに分かっている。

 九月一日の夕刻、丸山一家は、火災が迫って来そうな四谷を脱出して避難を始める。

 時計を見ると十一時である。向ふを六時に出たから、こつちへ来るまで、五時間かかつたのである。
 その晩は長谷川さんの家でねた。


 徒歩で5時間も歩いた、というこの記述は、東日本大震災の日の東京近郊における大量の帰宅難民の人たちを思い出させる。
 丸山一家が向かった先は、親が親交のあった東中野の長谷川如是閑宅である。その日は、大きな「長谷川さん」の家の庭にテントを張って寝た。


意外な情報の速さ

 大正十二年当時は、今と比べればテレビもインターネットもなかったし、情報を得る手段と言えば新聞や後はラジオがあったかというぐらいだったろうが、この丸山少年の作文を読んでいると意外と当時の情報の伝わり方は速かったのだな、と思わせる記述がある。

 すると新宿の方から、ものすごい黒煙があがつた。
 正ちやんが「あつ、火事だ、新宿だ」
とさけんだ。と、一せいにその方を見た。
 正ちやんのお母さんが、「十二階がおれたそうですね」とおつしやつた。


 「十二階」というのは、当時の日本を代表する高層建築、「浅草十二階」のことである。
 四谷に住んでいた丸山が、九月一日当日に、浅草の建物が倒れたことを知っていた。さらに、「神田も浅草ももうとつくに皆やけたそうだ」と書き、下町が火災によって全滅に近い状態であったことも把握している。


震災直後のデマ

 東日本大震災の後にもさまざまなデマが飛び交ったが、関東大震災のときにもあった。
 丸山少年は「恐ろしいうわさ」として次のように書いている。

 それから又朝せん人が、ばくだんを投げたり、するそうで、市の方で、けいかいが、げんぢゆうになつたから、こつちの東中野へ来たといふ話だ。ここまで逃げてきて、ばくだんで、やられたら、こなみぢんになるだらう。と思うと、思はず、身ぶるいする。


 私は小学校の社会の時間に、関東大震災の直後には「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマが飛び交った、と習ったような気がするが、丸山少年によれば爆弾を投げるという話もあったようだ。
 しかしさすがに冷静沈着な丸山眞男くんもこの話がデマである可能性を考えるところまでには至らなかったのだろう、9歳なのだから無理もない、と思いきや、巻末の「付録」に、ちゃんと次のように記していた。
 少し長くなるが引用しよう。

付録二 自警団の暴行
 震火災の後、朝せん人が、爆弾を投げると言ふことが、大分八釜しかつた。それであるから、多くの、せん人を防ぐのには、警察ばかりではどうしても防ぎきれない。それから自警団と言ふものが出来たのである。だが、今度の自警団はその役目をはたして居るのではなく、朝せん人なら誰でも来い。皆、打ころしてやると言ふ気だからいけない。
 朝せん人が、皆悪人ではない。その中、よいせん人がたくさん居る。それで、今度は朝せん人が、二百余名は打殺されてゐる。その中悪いせん人は、ほんのわづかである。それで警察の方ではなほいそがしくなる。それであるから今度の自警団は、暴行を加へたことになる。しらべて見ると、中には、せん人をやたらに、打殺したので、警官が、しばらうとすると、それに、うつてかかつて、さんざんなぐつた末、警察にまでおしこんで行くやうならんばう者もある。このやうにするのなら、あつてもなくても同ぢである。かへつてない方がよいかもしれない。こんなことなら自警団をなくならせた方がよい。
 自警団とは前にも申した通り、警察ばかりでは防げないから、そこで自警団と言ふ物を作つたのであつて、決して、朝せん人を殺すやくめとはまつたくちがふ。


 自警団ができた目的を考えた上で、それがまったく正常に機能していないどころか、却って悪になっている。こんなことなら無くしたほうがよい、という丸山少年の炯眼が光っている。


「公」への意識

 さらに丸山少年は、「今後の注意」として「公」への意識を語っている。

 今度の震火災の時百数十箇所から火が出たと言ふがもし東京の人が、自分一人を思はないで此の東京市を思ふ心があつたら、あんな大火にならずにすんだであらう。なぜならばあの時ちようど昼ごろ大抵の家は火をたいてゐるところであつた。すると突ぜん大地震が襲来した時大方の人は自分一人の命がたすかれば、この東京市はどんなになつてもかまふものかと言ふ心であつたに相ゐない。そうでなければすぐに地震中、てばやく火をけすであらう。東京の人がその心だつたらあんなにやけずにすんだであらう。
 この事は東京市民の恥であり又、日本の国の恥である。だから我々は未来どんなことが起つてもけつして自分一人を考へず公の事を考へなければならない。


 丸山少年のこの「注意」は、関東大震災について言ったもので、どんなときも我先に逃げてはいけない、と言うのは、津波の場合や東京大空襲のような場合に必ずしも当て嵌まるわけではない。
 だが、関東大震災の被害が大きくなった原因の分析としてはかなり鋭い。
 東京で生まれ育った私は、子どもの頃から地震が起きたらまず火の始末!と教わってきたが、それも、この時の教訓が生きているからだ。

 東日本大震災のときは、多くの日本人は店に殺到して食料品を強奪したりなどせず、じっと行列を作って並ぶ姿が世界から賞賛された。しかし、“ひっそりと”買い占めは行なった。
 自分一人さえ助かれば構うものか、という気持ちは現代の人の心の中にもあるのだ。
 丸山少年の「けつして自分一人を考へず」という警句は、現代にあってもなお重要な意味を持つ。


関東大震災と東日本大震災の共通点

 丸山少年はこの本を次のように締め括っている。

(午前十一時五十八分四十六秒)
安政大地震より七十年後


 東日本大震災でも「午後2時46分」までは言うが通常「秒」までは言わない。
 そして「前回」の東京の大地震である安政地震のことまで調べているのは恐れ入る。

 こうして見ると、関東大震災当時の様子は東日本大震災の時の東京と、そう変わらないような気がする。もちろん東京の被害は前者の方が甚大だったが、地震直後からいろんな情報が錯綜したり、デマが飛び交ったり、不安に駆られた行動をとったり、意外と冷静だったり、多くの共通点を感じる。

 夜になつた。電気がこないので、電車・電灯・電話、等も通ぢない。その外、水道・瓦斯もこないので丸で昔だ。地震のために今が昔にひつくりかへつたんだ……こう思うと、おかしくなつた。


という丸山少年の子どもらしい表現の感想を読んでいると、電話や電車が通じなくなったのは、東日本大震災の東京でもあったし、電気に頼って暮らしていて、それがストップしたら大混乱、という図式は、大正時代からそれほど変わってはいない、いやそれどころか電気への依存度はますます弥増している、現代は大正時代からどれだけ進歩したのだろうと思わずにはいられない。

 小学四年生の丸山眞男くんが、いつか来るであろう「東京大地震」の問題点を教えてくれている。都市計画や防災対策ばかりでなく、いざという時の人々の心理や行動の在り方など、実に多くのことを示唆してくれている一冊である。


(参考文献:「恐るべき大震災大火災の思出」『丸山眞男の世界』(みすず書房)所収)