暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

地下鉄サリン事件から20年、オウム真理教事件の衝撃

 自分の人生の中で最大の事件といえば何ですか?

 自分が生まれてから今までで、個人的な事件ではなく、事故や自然災害等も除いて、社会で起こった事件の中で最も大きな衝撃を受けた事件は何ですか?

 私は1995年の地下鉄サリン事件を始めとする一連の「オウム真理教事件」と答える。

 この事件は本当に大きな事件だった。

 世界的にはこれより大きな事件が他にもあったかもしれない。人によって何を「大きな」と捉えるかはさまざまだが、この事件が一番大きかったと感じるのは、私が日本人で東京に住んでいた、ということもあるだろう。

 あれから20年経って、オウム真理教事件を知らない世代の人も増えてきた。
 歴史の教科書で習って知るのと、リアルタイムで知っているということとは全然違う。
 なので、そういう若い人たちのために、オウム真理教事件の衝撃、当時の世の中の雰囲気、そして事件がどういうふうに受け止められていたのか、をリアルタイムで知っている世代の私が書き留めておこうと思う。


時代を劃す1995年

 それでなくても、1995年という年は印象に残る年だ。
 1月には歴史に残る災害(阪神・淡路大震災)があった。そして、パソコン元年、携帯電話元年、インターネット元年の年でもある。

 この年を機に、パソコンは特定のオタクの物から一般の人の物になった。携帯電話は小型化して一人一台持つ時代になった。それまで特定の限られた人しか触ったことのなかったインターネットを一般の人が使い始めた。

 ぜんぶ1995年だった。


地下鉄サリン事件の衝撃

 オウム真理教が起こした一連の事件の中でも、地下鉄サリン事件は特に衝撃が大きかった。

 私の父はサリンが撒かれた時間帯の丸ノ内線に乗っていた。

 1995年3月20日は月曜日だった。父はいつものように丸ノ内線に乗って出勤した。父は特にトラブルもなく普通に職場に行くことができた。
 あの日、父がもうちょっと早く、あるいはもうちょっと遅く家を出ていたらサリンの被害に遭っていたかもしれない。

 その日の夜、テレビのニュースで人々が担架で運ばれている映像を見たけれども、その時点ではそんなに大した出来事だとは思っていなかった。

 で、その二日後の朝、テレビで突然、警察が山梨県上九一色村の施設に突入する物々しい映像が流れた。

 私はこれを「突然」と感じたことを覚えている。「突然」というのは前後の脈絡がないということだ。

 当時の大人たちのどれだけの人が、二日前に起こった地下鉄の騒ぎと、オウム真理教とを結びつけて考えることができていたのだろう。
 「私は薄々、オウムが怪しいんじゃないかと思ってたよ」という人はどれだけいたのだろう。

 私にとっては「突然なにごと?」という感じだった。
 それは異様な光景だった。
 大規模の警察隊がガスマスクをして、先頭にいる人は鳥籠を持っている。危険な成分が空気中にあったら鳥が真っ先に死んで異常が判るからだ。

 私の頭の中では地下鉄の事件とオウム真理教とはまったく結びついていなかった。さらには山梨県上九一色村に、そんな大きな施設があることも知らなかった。

 テレビは連日、この地下鉄事件とオウム真理教一斉捜索を報道した。緊迫していた。「これは戦争だ」という空気があった。

 翌4月には、教団ナンバー2でサリン事件や数々の兇悪事件で中心的役割をしてきたと見られていた村井秀夫が多くの報道陣に囲まれる中、刺殺されるという事件が起こった。
 これもテレビでリアルタイムで見ていた。あんなに大勢の人に取り囲まれて、さらには全国の視聴者が見ている前で人が殺される、というのも衝撃的だった。
 JFK事件を聯想した。
 犯人はすぐに捕まったが、この事件の背景は未だに解明されていない。そして、村井の死によって、オウムの一連の事件の真相究明も困難になった。

 地下鉄サリン事件がどんな事件だったのかはウィキペディアを見るなり、当時の映像を見れば、なんとなく分かる。
 私が若い人に伝えたいのは、当時の東京に住んでいた「一般市民」が、この事件をどのように感じていたか、ということだ。

 もっとも、受け止め方は人によって温度差があった。
 緊迫感、ものものしい雰囲気、そういうのは誰もが感じていたことだが、これがどれほどの”大きな”事件であるか、という受け止め方にはだいぶ開きがあった。
 子どもたちなんかは、学校で麻原彰晃の似顔絵を書いたり「ポア」や「サティアン」という言葉が流行ったり、ずいぶん呑気なものだった。

 政治家の中では、私は野中広務という人が印象に残っている。国家公安委員長も務めた野中は、オウム事件に対する危機感を最も語っていた政治家だった。「国家が転覆する虞があった」と何度も語っていた。「国家転覆って、そんな大袈裟な」と受け止める人も多い中で、事の重大さをよくわかっている人だと思った。


地下鉄サリン事件がなぜ一位なのか

 私がなぜ、「人生の中で一番大きな事件」として地下鉄サリン事件および一連のオウム真理教事件を上げるのか。
 被害者の数だけで言うなら他にもっと大きな事件があったかもしれない。テレビで取り上げられたインパクトという点でももっと他に大きな事件があったかもしれない。

 例えば、あさま山荘事件などは、テレビでも中継され、当時の日本国民に与えたインパクトも大きかった。だが、こうした事件は”昔”、”昭和の昔”を思わせる。

 地下鉄サリン事件の衝撃は、一言で言うと、”未来”を感じさせたところにある。

 褒め言葉では決してないが、地下鉄サリン事件は時代を何十年も先取りしていた。

 2015年の今の事件だと言ってもおかしくないし、今から20年後の東京で起こる事件だ、と言われてもおかしくない。

 実際、地下鉄サリン事件は時代の時計の針を一気に進めた。

 例えば、都心のオフィスビルに、地下の飲食店フロアなど一般に開放されているエリアを除けば、普通、部外者は中に立ち入ることはできない。今の若い人は、これを当たり前のことだと思うだろう。

 だが、1994年までは部外者でもオフィスビル内にけっこう自由に立ち入ることができたのだ。さすがに部屋の中までは入れないが、大きなビルなら中層階や高層階のトイレなどでも利用することができた。
 それが1995年を境に、あらゆるビルの入り口に、「関係者以外立入禁止」、「特別警戒実施中」、「防犯カメラ稼働中」という看板が設置されるようになった。

 「昔はいろんなことが大らかで、規制もゆるかったよね。最近は物騒な世の中で、だんだん”防犯”とか”セキュリティ”とか厳しくなってきたよね」と言う人がいる。

 そう、こういう変化は普通は「だんだん」、何年、何十年というスパンで徐々に変化していくものだ。

 だが、ビル内への立ち入り規制などは、1995年に”ガラッと”変わったのだ。


”寛容”だった1990年代前半の社会的ムード

 当時の時代背景についても触れておきたい。

 1990年代の日本はどのような時代の空気に包まれていたか。

 今は、「ヘイトスピーチ」が話題になるなど、社会全体として「狭隘」、「偏狭」の度合いがやや強まっている印象があるが、当時は逆に「寛容」の度合いが大きい時代だった。
 「個性を大事にしましょう」ということが盛んに言われた時代だった。

 衆議院議員選挙で、街のあちこちの掲示板にオウムの立候補者のポスターが貼ってあったが、「見るからに怪しい」などと先入観や偏見で人を判断してはいけません、という空気が強く支配していた。

 1990年代の前半頃の日本は、国全体に「寛容」、「個性尊重」という空気が流れていた。そういう時代背景がなければ「サティアン」のような、あんな大きな「工場」を堂々と建設できていなかった。


オウム事件が問いかけるもの

 オウム事件が一変させたものは、建物の防犯の強化やゴミ箱の撤去ばかりではない。
 「洗脳」という、それまで日常であまり聞くことのなかった言葉を日常的に聞くようになった。

 海外でもこのニュースは大々的に報道された。
 海外での注目度が高かったのも、この事件が「未来的」だったからだ。

 想像を超えていた。
 何もかもが斬新だった。
 信者を獲得する方法も、東大生や理系学部出身の高学歴者を狙う戦略も、それらの人を徐々に洗脳していくやり方も、教団内にさまざまな「大臣」を置いて擬似国家を形成していくやり方も。

 「国家転覆なんてあるはずないよ。法治国家の現代の日本でそんなことはあり得ない。現にこうして悪いことをした人たちはみんな逮捕されてるじゃないか」と言った人がいた。

 しかし逮捕されたのは、それは結果の側から言えばそうだというだけだ。
 語弊のある言い方かもしれないが、被害がこれぐらいで済んだのは、麻原が、あるいは指示を受けた実行犯が「ヘマ」をしたからだ。もっと上手くやっていればもっと何十倍、何百倍という被害者を出していただろう。
 オウム真理教の暴走を止められなかった。あんな大規模なサリンの製造工場まで作ってしまうのを日本は看過していた。
 私たちはオウムの「拙攻」に助けられたのだ。

 今の私たちは、こうした事件が再び起こるのを防ぐことができるだろうか。「防犯」や「セキュリティ」の強化だけで防げるだろうか。

 20年経った今でも、あの頃を思い出す。
 地下鉄の網棚にある袋に異常に敏感になっていたあの頃。地下鉄に乗った時は、なんとなく思いきり息を吸うのが怖くて、少し”浅め”に呼吸していたあの頃。

 父があとほんの少し早い電車に乗っていれば、私の人生は高橋シズヱさんのような裁判所通いの日々になっていたかもしれない。
 地下鉄サリン事件で夫を亡くした高橋さんの、
 「19年、20年たつと(事件を)知らない人がたくさんいる。これから(同じような事件が)起こらないとは限らない。裁判で刑が確定して終わりではなく、何が起きたのか、風化させてはいけない。」
という言葉が重く心に響く。

 被害者の人たちは今も後遺症に苦しんでいる。教団も後継して存続している。
 事件はまだ終わっていない。