悲運の美男子武将、平維盛の生涯
私が思いを馳せるのはいつだって、平安時代末期の平氏のこと。
全盛期の平氏ではなくて。
没落期の平氏。
平家全盛を誇った平清盛。
平清盛のような活躍した武将に注目が集まるのは世のならいだが、今日話すのは、その孫、平維盛(たいらのこれもり)のこと。
今日3月28日は『平家物語』によれば、平維盛が亡くなった日。
それで、この絶世の美男子将軍、悲運の武将の生涯を振り返りたい。
主な登場人物
初めに主な登場人物の名前を紹介しておきたい。
この時代は「平ナントカ盛」という名前の人が非常に多くてややこしい。日本史で苦しめられた思い出のある人も多いと思う。
平清盛(きよもり):維盛のおじいちゃん。平家隆盛の時代を作ったカリスマ的存在。剛の者。
平重盛(しげもり):維盛のお父さん。清盛の長男。
平宗盛(むねもり):重盛の弟。維盛の叔父さん。清盛、重盛亡き後の平家の大将的存在。が、気が弱く頭も悪い。
平重衡(しげひら):重盛の弟。維盛の歳の近い叔父さん。できる男。女性の扱いにも長けたイケメン。
平維盛(これもり):清盛の孫。重盛の長男。紅顔の美男子。今日の話の主役。
何もなかった子ども時代
維盛は1159年、平重盛の長男として生まれた。平清盛の孫に当たる。
1159年と言えば、ちょうど保元・平治の乱という大きな戦があった頃だ。おじいちゃんとお父さんが勝利して、平家の地位を不動のものにした、あの戦争だ。
維盛は平家の隆盛(りゅうせい)が最高潮に達した時に生まれた。「平家でない者は人にあらず」と言われるほどの時代だった。
しかも、平家の総大将である平清盛の長男の長男として生まれた。
「日本一の子ども」として生まれた、と言っても過言ではない。
因みに同世代の有名人には鴨長明がいる。
子ども時代は特に困ったこともなかった。順調に出世した。出世と言っても子どもだから政治的な意味合いではなく、年齢とともに階級が上がっていったというだけだが。
子ども時代は本当に不思議なくらい何もない時代だった。保元・平治の乱は物心がつく前に終わっている。保元の乱は生まれる前で、平治の乱も1歳だから当然記憶に無い。
物心がついてからの少年時代、10代の頃は、本当に何もない時代だった。
青海波の舞で絶賛された18歳
10代の時にあった唯一の大きな出来事は、18歳の時の「青海波(せいがいは)」だった。
清盛おじいちゃんは、平家の棟梁であるばかりでなく武家のトップでもあったので、天皇や偉い貴族の人たちとも親交があった。それで維盛は、おじいちゃんの孫として、重要な儀式の場にちょくちょく呼ばれたりすることもあった。
この年、後白河法皇の50歳の誕生日を祝う、お誕生日会があった。それに呼ばれて「何か舞え」と言われたので「青海波の舞」を舞った。
「青海波(せいがいは)」というのは古代中国の舞だ。
これが大評判を呼んだ。
幼い頃から「美男子、美男子」と周囲の人から言われてきたけれども、初めて大勢の人の前で舞を舞ったら、「容顔美麗」、「尤も歎美」、「作法優美」、「人々感歎」と絶賛の嵐だった。
建礼門院右京大夫という、ちょっと年上の綺麗なお姉さんからも「昔今見る中に、例もなき(美貌)」と言われた。
が、維盛の人生は、この18歳の時がピークだった。
お父さんの死と富士川の敗戦
20歳の時、重盛お父さんが亡くなった。
20代になって、いよいよ人生これから、という時だった。
父親が亡くなるというのは、当時は人生を左右する大きな出来事だった。父親は政治的な意味で有力な庇護者だからだ。
実際、平家と微妙な関係にあった後白河法皇に、一部の土地を取り上げられた。
そして、この時期、全国各地で「反平家」の動きが始まった。中でも「源氏」は強力な敵だった。
東国の源氏を征伐せよ、という命令が出た。
維盛は平家の将軍として静岡県に向かった。
富士川というところで源氏と戦った。
結果は大惨敗。平家軍の兵士たちは敵軍の奇襲にビビって、戦わずして逃げてしまった。
帰ったら、おじいちゃんにめちゃくちゃ怒られ、「入京を認めない」と言われてしまう。
敗けた原因はいろいろあるが、一番大きかったのは、参謀役として付き従った藤原忠清というおじさんが、いざ攻め込もうという時になって、「日が悪い」だのなんだのと言って、攻め入るのを遅らせた。このことによって、戦場までの距離が近い源氏軍は、助っ人が続々追いつき、体制を立て直すことができてしまった。
維盛は戦う気満々だったが、平家軍の兵士たちは恐慌状態に陥り、敗走してしまう。
おじいちゃんの死と倶利伽羅峠の敗戦
さらに悪いことは続く。
維盛22歳の時、最悪のタイミングで清盛おじいちゃんが病気で亡くなってしまう。
清盛おじいちゃんはカリスマ的な人だった。このおじいちゃんの存在のおかげで、平家がまとまっている、平家の隆盛が保たれていると言っても過言ではなかった。
清盛亡くなるとみるや、今度は木曽義仲という源氏の人が、反平家の挙兵を始めた。
24歳の維盛は平家の「大将軍」としてこれを追討するよう命じられる。
「大将軍」というと聞こえはいいけど、遠方への戦は大変な任務なのだ。本当のトップの人は京から動かない。つまり富士川の戦いの大惨敗の責任をとらせる罰の意味もあった。
維盛率いる平家軍は、その数「四万」とも言われる大軍で、北陸方面に向かった。
そして富山県あたりで木曽義仲軍と戦った。
結果から言うと、またしても大惨敗。しかも、富士川の戦いの時と同じく、「戦わずしての敗け」だった。
この時も敗けた理由がある。
いわゆる、「群衆事故」だった。
群衆事故というのは、現代でもある。一箇所に集まった大勢の人が何かをきっかけにパニックになって将棋倒しになったりして圧死したりする事故だ。
平家の兵庫県繫がりで、私は明石の花火大会歩道橋事故(平成13年)を思い出す。
夜、休みをとっていた平家軍は突如、源氏軍に奇襲される。慌てた平家軍は逃げようとするが、なんと背後にも源氏軍が待ち構えていた。パニックになった平家の大軍は、唯一、敵兵がいない方向へと走って行く。しかしそこは行き止まりの断崖絶壁だった。
「戻れー!」「押すなー!」
「こっちは行き止まりだ!戻れー!戻れー!」
そういう絶叫が飛び交ったに違いない。しかし次々と押し寄せる平家の大軍。搔き消される叫び声。味方の兵士たちに押されて、次々と崖底へ転落していった。
この時、平家軍の大半が亡くなり、崖底は死屍累累、平家の屍で谷が埋まるほどだったという。
私は、これは記録に残る、古い群集事故の例だと思う。
敵と戦って敗けたというより、味方に押されて落っこちて自滅したのだ。
都落ちと西への逃避行
この年、平家はついに「都落ち」する。
しかしこの時も幾つもの「失敗」が重なってそうなったのだ。
大きな戦いに敗けたとはいえ、平家はまだそれなりの自力を保っていた。
が、このとき総大将的存在だった宗盛叔父さんの幾つもの「失策」が、事態を悪くした。
そもそも宗盛叔父さんは「総大将」なのに弱気すぎた。あまりに気が弱くて頭も悪そうだったので、後白河法皇は平家と組んでるのは得策ではないと判断し脱出してしまった。
これが大誤算だった。法皇は何としても行動を伴にしてもらわなければならなかった。
平家一門は後白河法皇を連れ出せずに都落ち。西へ西へと逃げる日々が始まる。
途中で時々、追ってくる源氏軍と戦いながら、ひたすら西へ西へと逃げる。
しかし次々と味方の誰々が亡くなったという報せが届く。もう駄目だ。平家一門はもう終わりだ。自分が死ぬのも時間の問題だろう。そう悟った維盛は、最期に京に置いてきた妻と子どもに一目逢いたいと思った。
平家の一行から密かに離脱する。そして京へと向かう。しかし危険すぎる京には入れず、妻と子どもに心の中で永久の別れを告げた維盛は、和歌山県那智に向かい、そこで自ら入水して人生を終える。25歳の若さだった。
その翌年、最後まで残った平家も、山口県の壇ノ浦でついに滅亡する。
長男の維盛にはどれほどの権力があったか
ここまで読んで、「かわいそうだけれども少し同情的に書き過ぎじゃないか。維盛は清盛の孫、長男の長男だったんでしょう?だったら、維盛こそトップの責任者じゃないか」と思う人がいるかもしれない。
だが、長男がそこまで力を持っている時代ではなかった。「長男が偉い」という風潮になっていくのはもう少し後の時代のことだ。「長幼の序」を重んじる儒教の影響がある。平安時代は仏教の影響は強くあったが、儒教はまだそこまでではなかった。また、戦国時代ともなれば完全に武士の世の中なので、指揮系統を統一するためにトップの責任者をはっきりさせる必要があっただろう。しかし平家は、日本史の最初の頃の武家なので、戦国時代の武士の家ほどそこまで組織としてしっかりしているわけでもなかった。
平家は文字通り、平氏の「家(ファミリー)」だった。言わば、親戚の叔父さんたちや従兄弟の男たちなど、全員が「主役」だった。「一人の主君とその部下たち」という組織ではなかった。
また、維盛は「長男」ではあったが、母親の身分がそれほど高くなかった。
当時は、高貴な血筋に生まれた人の方が偉い、という感覚が強くあった。だから、単に「一番初めに生まれた男の子」である維盛よりも、高貴な母親から生まれた異母弟たちの方が上に見られることもあった。
それは父親の重盛にしても同じことで、身分の低い母から生まれた「長男・重盛」よりも、身分の高い母から生まれた宗盛の方が、大将的存在になっていった。
維盛は本当に美男子だったか
維盛は本当に美男子だったのだろうか。こればかりは写真も残っていないので分からない。
『平家物語』の作者が物語をおもしろくするために、必要以上に美男子と褒めちぎって書いたかもしれない。
だが、私は本当に美男子だったのだろうと思う。
そう思える論拠はある。
当時の結婚というものは、両家の親同士が話し合って決める、極めて政治的な意味合いの強いものだった。
維盛のお母さんはいわゆる「正妻」ではない。つまり正式な結婚とは別に、わざわざ身分の低い女性をお父さんが求めた、ということは、お母さんはよほどの美人だったに違いない。男の子はお母さんに似る、というのはよくあることだ。
『平家物語』の誇張ではなく、維盛は本当に美男子だったのだ。
「桜梅の美男子」と「牡丹のイケメン」の違い
重盛お父さんの異母弟に重衡(しげひら)という人がいる。維盛の叔父にあたるが、歳が近いため、叔父さんというよりお兄さん的存在だった。
この重衡が「かっこいいお兄さん」だった。見た目もかっこ良かったし、仕事も「できる男」だった。そのかっこ良さは「牡丹の花」に例えられた。
女性にモテた。
重衡の周りには常に女性たちが集まり、人気者だった。女性たちとのコミュニケーションの取り方が上手だった。優しくて明るくて面白くて頼もしい人で、現代風に言うなら「イケメン」だった。
一方の維盛は、「桜梅」に例えられた。「桜梅少将」と呼ばれた。
イケメンではなく「美男子」だった。「容顔第一」と呼ばれた維盛は、単に「顔立ちが美しい」というだけだった。
牡丹の花が美しくそこに“ある”のに対して、桜梅は見た目も美しいが、“散り際”に美しさを見せる。それは、儚い美しさだ。
女性にもモテなかった。
一応、親の意嚮で結婚はできたけれども、知ってる女性は妻一人だけだった。
先にちょろっと紹介した「綺麗なお姉さん」建礼門院右京大夫も、弟の資盛(すけもり)の彼女であって、維盛の彼女ではなかった。
維盛の苦しみ
「名門の家に生まれて、しかも長男として生まれて、しかも顔が美形ときたら完璧じゃないか!うらやましい!」
「うらやましすぎる!ずるい!俺と替わってくれ!」
そう言う人は多いだろう。
しかしこういう羨みが、まったく的外れであるのは維盛の人生を見れば分かる。
維盛は「いい家」に生まれたことで、あるいは「美男子」に生まれたことで、人生で得したことなど何もなかった。
それどころか、逆に平家に生まれたことで、みんなから石を投げつけられる人生を送ることになった。
美男子ということだって、女性にモテることには役には立たず、男性にモテることに役立ってしまって維盛にとってはちっとも嬉しくもないことだった。(実際、当時、維盛の周囲には男色傾向のある人は多く、男の人たちから迫られることもあったようだ。)
長男ということだって、「長男なんだから」と責任は押し付けられる一方で、そこまでの権限は与えられず、実際の戦の時には、力を持った叔父さんたちの声が大きくて、自分の声は通せなかった。この「声の大きい叔父さんたち」が軍の統一を乱して敗けに繫がることが多かったのに、敗けたら敗けたで、維盛のせいにされた。
「いい家」、「長男」、「美男子」。そんな、人が羨むような、本来なら「利点」とも思われる要素は、維盛の人生においてはまったく利点でなかったばかりでなく、むしろマイナスに作用した。
「驕る平家は久しからず」の嘘
私がなんでこんな話を書こうと思ったか。
なぜ平維盛という人に関心を持ち、書こうと思ったのか。
それは、「驕る平家は久しからず」という、あの有名な言葉に以前からずっと違和感を持っていたからだ。いや、違和感というより反撥を抱いていた。
この言葉は、「驕った態度をとっているといつか痛い目に遭う」という傲慢な人生を送ることへの戒めの言葉として使われる。
「平家は、あんなに尊大な態度で振るまい傲慢な人生を送っていたから、人々の恨みを買って、ついにはこんな痛い目を見ることになったのだ。ざまあみろ。天罰だ」と人々は言う。
だが、驕っている人と罰を受けている人が別ではないか。
維盛がいつ驕った?
「でも、0代、10代の頃はいい暮らしをしていたでしょう?」と言うかもしれない。
たしかに維盛は、子ども時代、普通の子よりもいい服を着て、おいしいものを食べていたかもしれない。しかしそれは「裕福な育ち」ということであって、「驕る」ということとは違う。
子どもの頃は、親によってそのような生活を“させられて”いるのであり、「驕る」というのは、二十歳になって金や権力を使える年齢になって自分の意思で行うことを「驕る」と言うのだ。
別に驕れなくてもいい。驕った生活をしてはいけないと言うなら、それはそれでいい。維盛はべつに驕りたかったわけではない。質素な生活でもよかった。
維盛の苦しみは「おじいちゃんやお父さんのように驕った暮らし、豪遊ができなかった」というところにあるのではない。
「驕る平家は久しからず」と、身に覚えのない言葉で源氏や世間から石を投げつけられたところにある。
驕っていたのは、お父さんやおじいちゃんや、ひいおじいちゃんの時代の話であって、維盛は身に覚えのないことだ。
お父さんは身に覚えがあっただろう。おじいちゃんはもっと十分に身に覚えがあっただろう。だが、そのおじいちゃんとお父さんは戦没ではなく病没したのだ。恨みを買った人たちから殺されたのではなく、寿命を全うして亡くなったのだ。おじいちゃんもお父さんも、あの都落ちから西へ西へと敗走した悲惨な日々を知らない。
「おまえのご先祖様を恨むんだな」などと言いながら、人々は維盛に向かって石を投げつけた。
驕りたいわけではない、と言ったが、こんな理不尽な目に遭うのなら、いっそ驕った暮らしをしておけばよかった。
女遊びもしなかった。
弱冠15歳の時に、父や祖父の意嚮で結婚させられた、ただ一人の妻を愛した。
18歳の青海波の舞のときは、そのあまりの美しさから「光源氏の再来」と皆から言われたが、その後の人生で源氏軍に苦しめられたことを思えば、敵の名前で褒められるなんて皮肉でしかなかった。「容貌が美しい」なんて、武将としての、男としての幸せや誉れとは何の関係もなかった。
妻や子供も守ってやれなかった。最後の別れのとき、妻には「自分が亡くなったら再婚してくれ」とは言っておいたが。
「驕る平家は久しからず」。
平家物語の冒頭の言葉に由来するこの諺を人が口にするとき、私はあなたの言う「平家」とはいったい誰のことを言っているのか、と思う。
平家という家を構成しているのは一人一人の人だ。その一人一人に光を当ててみれば、時代の波の浮沈が大きく作用しているのが見えてくる。運命という名の人間が作り出した機構が作用しているのが見えてくる。そうしたものを無視して何かを語ることは自分がまた時代を形作ってる主体であるという責任意識の欠如を現している。
平維盛の生涯は、何度も何度も、時代について、運命について、人生について、私に考えさせる。
(※)この記事は、歴史的事実に関してはなるべく調べて正確性を心掛けて書くようにはしましたが、私の見方が多分に入っており、脚色されています。レポートを書いてる学生さんは「出典:暫定龍吟録」などとせず、もっとしっかりした文献、史料に当たってください。
私がこの文章を書くにあたって参考にしたのは以下の文献です。特に高橋昌明氏の『平家の群像』は大いに参考にしています。
(※2015/04/03)重衡の名前を間違っていたのを訂正しました。あゝ、本当にややこしい。
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30歳までニート!鴨長明という人-『方丈記』800年記念-(2012/07/31)
全盛期の平氏ではなくて。
没落期の平氏。
平家全盛を誇った平清盛。
平清盛のような活躍した武将に注目が集まるのは世のならいだが、今日話すのは、その孫、平維盛(たいらのこれもり)のこと。
今日3月28日は『平家物語』によれば、平維盛が亡くなった日。
それで、この絶世の美男子将軍、悲運の武将の生涯を振り返りたい。
主な登場人物
初めに主な登場人物の名前を紹介しておきたい。
この時代は「平ナントカ盛」という名前の人が非常に多くてややこしい。日本史で苦しめられた思い出のある人も多いと思う。
平清盛(きよもり):維盛のおじいちゃん。平家隆盛の時代を作ったカリスマ的存在。剛の者。
平重盛(しげもり):維盛のお父さん。清盛の長男。
平宗盛(むねもり):重盛の弟。維盛の叔父さん。清盛、重盛亡き後の平家の大将的存在。が、気が弱く頭も悪い。
平重衡(しげひら):重盛の弟。維盛の歳の近い叔父さん。できる男。女性の扱いにも長けたイケメン。
平維盛(これもり):清盛の孫。重盛の長男。紅顔の美男子。今日の話の主役。
何もなかった子ども時代
維盛は1159年、平重盛の長男として生まれた。平清盛の孫に当たる。
1159年と言えば、ちょうど保元・平治の乱という大きな戦があった頃だ。おじいちゃんとお父さんが勝利して、平家の地位を不動のものにした、あの戦争だ。
維盛は平家の隆盛(りゅうせい)が最高潮に達した時に生まれた。「平家でない者は人にあらず」と言われるほどの時代だった。
しかも、平家の総大将である平清盛の長男の長男として生まれた。
「日本一の子ども」として生まれた、と言っても過言ではない。
因みに同世代の有名人には鴨長明がいる。
子ども時代は特に困ったこともなかった。順調に出世した。出世と言っても子どもだから政治的な意味合いではなく、年齢とともに階級が上がっていったというだけだが。
子ども時代は本当に不思議なくらい何もない時代だった。保元・平治の乱は物心がつく前に終わっている。保元の乱は生まれる前で、平治の乱も1歳だから当然記憶に無い。
物心がついてからの少年時代、10代の頃は、本当に何もない時代だった。
青海波の舞で絶賛された18歳
10代の時にあった唯一の大きな出来事は、18歳の時の「青海波(せいがいは)」だった。
清盛おじいちゃんは、平家の棟梁であるばかりでなく武家のトップでもあったので、天皇や偉い貴族の人たちとも親交があった。それで維盛は、おじいちゃんの孫として、重要な儀式の場にちょくちょく呼ばれたりすることもあった。
この年、後白河法皇の50歳の誕生日を祝う、お誕生日会があった。それに呼ばれて「何か舞え」と言われたので「青海波の舞」を舞った。
「青海波(せいがいは)」というのは古代中国の舞だ。
これが大評判を呼んだ。
幼い頃から「美男子、美男子」と周囲の人から言われてきたけれども、初めて大勢の人の前で舞を舞ったら、「容顔美麗」、「尤も歎美」、「作法優美」、「人々感歎」と絶賛の嵐だった。
建礼門院右京大夫という、ちょっと年上の綺麗なお姉さんからも「昔今見る中に、例もなき(美貌)」と言われた。
が、維盛の人生は、この18歳の時がピークだった。
お父さんの死と富士川の敗戦
20歳の時、重盛お父さんが亡くなった。
20代になって、いよいよ人生これから、という時だった。
父親が亡くなるというのは、当時は人生を左右する大きな出来事だった。父親は政治的な意味で有力な庇護者だからだ。
実際、平家と微妙な関係にあった後白河法皇に、一部の土地を取り上げられた。
そして、この時期、全国各地で「反平家」の動きが始まった。中でも「源氏」は強力な敵だった。
東国の源氏を征伐せよ、という命令が出た。
維盛は平家の将軍として静岡県に向かった。
富士川というところで源氏と戦った。
結果は大惨敗。平家軍の兵士たちは敵軍の奇襲にビビって、戦わずして逃げてしまった。
帰ったら、おじいちゃんにめちゃくちゃ怒られ、「入京を認めない」と言われてしまう。
敗けた原因はいろいろあるが、一番大きかったのは、参謀役として付き従った藤原忠清というおじさんが、いざ攻め込もうという時になって、「日が悪い」だのなんだのと言って、攻め入るのを遅らせた。このことによって、戦場までの距離が近い源氏軍は、助っ人が続々追いつき、体制を立て直すことができてしまった。
維盛は戦う気満々だったが、平家軍の兵士たちは恐慌状態に陥り、敗走してしまう。
おじいちゃんの死と倶利伽羅峠の敗戦
さらに悪いことは続く。
維盛22歳の時、最悪のタイミングで清盛おじいちゃんが病気で亡くなってしまう。
清盛おじいちゃんはカリスマ的な人だった。このおじいちゃんの存在のおかげで、平家がまとまっている、平家の隆盛が保たれていると言っても過言ではなかった。
清盛亡くなるとみるや、今度は木曽義仲という源氏の人が、反平家の挙兵を始めた。
24歳の維盛は平家の「大将軍」としてこれを追討するよう命じられる。
「大将軍」というと聞こえはいいけど、遠方への戦は大変な任務なのだ。本当のトップの人は京から動かない。つまり富士川の戦いの大惨敗の責任をとらせる罰の意味もあった。
維盛率いる平家軍は、その数「四万」とも言われる大軍で、北陸方面に向かった。
そして富山県あたりで木曽義仲軍と戦った。
結果から言うと、またしても大惨敗。しかも、富士川の戦いの時と同じく、「戦わずしての敗け」だった。
この時も敗けた理由がある。
いわゆる、「群衆事故」だった。
群衆事故というのは、現代でもある。一箇所に集まった大勢の人が何かをきっかけにパニックになって将棋倒しになったりして圧死したりする事故だ。
平家の兵庫県繫がりで、私は明石の花火大会歩道橋事故(平成13年)を思い出す。
夜、休みをとっていた平家軍は突如、源氏軍に奇襲される。慌てた平家軍は逃げようとするが、なんと背後にも源氏軍が待ち構えていた。パニックになった平家の大軍は、唯一、敵兵がいない方向へと走って行く。しかしそこは行き止まりの断崖絶壁だった。
「戻れー!」「押すなー!」
「こっちは行き止まりだ!戻れー!戻れー!」
そういう絶叫が飛び交ったに違いない。しかし次々と押し寄せる平家の大軍。搔き消される叫び声。味方の兵士たちに押されて、次々と崖底へ転落していった。
この時、平家軍の大半が亡くなり、崖底は死屍累累、平家の屍で谷が埋まるほどだったという。
私は、これは記録に残る、古い群集事故の例だと思う。
敵と戦って敗けたというより、味方に押されて落っこちて自滅したのだ。
都落ちと西への逃避行
この年、平家はついに「都落ち」する。
しかしこの時も幾つもの「失敗」が重なってそうなったのだ。
大きな戦いに敗けたとはいえ、平家はまだそれなりの自力を保っていた。
が、このとき総大将的存在だった宗盛叔父さんの幾つもの「失策」が、事態を悪くした。
そもそも宗盛叔父さんは「総大将」なのに弱気すぎた。あまりに気が弱くて頭も悪そうだったので、後白河法皇は平家と組んでるのは得策ではないと判断し脱出してしまった。
これが大誤算だった。法皇は何としても行動を伴にしてもらわなければならなかった。
平家一門は後白河法皇を連れ出せずに都落ち。西へ西へと逃げる日々が始まる。
途中で時々、追ってくる源氏軍と戦いながら、ひたすら西へ西へと逃げる。
しかし次々と味方の誰々が亡くなったという報せが届く。もう駄目だ。平家一門はもう終わりだ。自分が死ぬのも時間の問題だろう。そう悟った維盛は、最期に京に置いてきた妻と子どもに一目逢いたいと思った。
平家の一行から密かに離脱する。そして京へと向かう。しかし危険すぎる京には入れず、妻と子どもに心の中で永久の別れを告げた維盛は、和歌山県那智に向かい、そこで自ら入水して人生を終える。25歳の若さだった。
その翌年、最後まで残った平家も、山口県の壇ノ浦でついに滅亡する。
長男の維盛にはどれほどの権力があったか
ここまで読んで、「かわいそうだけれども少し同情的に書き過ぎじゃないか。維盛は清盛の孫、長男の長男だったんでしょう?だったら、維盛こそトップの責任者じゃないか」と思う人がいるかもしれない。
だが、長男がそこまで力を持っている時代ではなかった。「長男が偉い」という風潮になっていくのはもう少し後の時代のことだ。「長幼の序」を重んじる儒教の影響がある。平安時代は仏教の影響は強くあったが、儒教はまだそこまでではなかった。また、戦国時代ともなれば完全に武士の世の中なので、指揮系統を統一するためにトップの責任者をはっきりさせる必要があっただろう。しかし平家は、日本史の最初の頃の武家なので、戦国時代の武士の家ほどそこまで組織としてしっかりしているわけでもなかった。
平家は文字通り、平氏の「家(ファミリー)」だった。言わば、親戚の叔父さんたちや従兄弟の男たちなど、全員が「主役」だった。「一人の主君とその部下たち」という組織ではなかった。
また、維盛は「長男」ではあったが、母親の身分がそれほど高くなかった。
当時は、高貴な血筋に生まれた人の方が偉い、という感覚が強くあった。だから、単に「一番初めに生まれた男の子」である維盛よりも、高貴な母親から生まれた異母弟たちの方が上に見られることもあった。
それは父親の重盛にしても同じことで、身分の低い母から生まれた「長男・重盛」よりも、身分の高い母から生まれた宗盛の方が、大将的存在になっていった。
維盛は本当に美男子だったか
維盛は本当に美男子だったのだろうか。こればかりは写真も残っていないので分からない。
『平家物語』の作者が物語をおもしろくするために、必要以上に美男子と褒めちぎって書いたかもしれない。
だが、私は本当に美男子だったのだろうと思う。
そう思える論拠はある。
当時の結婚というものは、両家の親同士が話し合って決める、極めて政治的な意味合いの強いものだった。
維盛のお母さんはいわゆる「正妻」ではない。つまり正式な結婚とは別に、わざわざ身分の低い女性をお父さんが求めた、ということは、お母さんはよほどの美人だったに違いない。男の子はお母さんに似る、というのはよくあることだ。
『平家物語』の誇張ではなく、維盛は本当に美男子だったのだ。
「桜梅の美男子」と「牡丹のイケメン」の違い
重盛お父さんの異母弟に重衡(しげひら)という人がいる。維盛の叔父にあたるが、歳が近いため、叔父さんというよりお兄さん的存在だった。
この重衡が「かっこいいお兄さん」だった。見た目もかっこ良かったし、仕事も「できる男」だった。そのかっこ良さは「牡丹の花」に例えられた。
女性にモテた。
重衡の周りには常に女性たちが集まり、人気者だった。女性たちとのコミュニケーションの取り方が上手だった。優しくて明るくて面白くて頼もしい人で、現代風に言うなら「イケメン」だった。
一方の維盛は、「桜梅」に例えられた。「桜梅少将」と呼ばれた。
イケメンではなく「美男子」だった。「容顔第一」と呼ばれた維盛は、単に「顔立ちが美しい」というだけだった。
牡丹の花が美しくそこに“ある”のに対して、桜梅は見た目も美しいが、“散り際”に美しさを見せる。それは、儚い美しさだ。
女性にもモテなかった。
一応、親の意嚮で結婚はできたけれども、知ってる女性は妻一人だけだった。
先にちょろっと紹介した「綺麗なお姉さん」建礼門院右京大夫も、弟の資盛(すけもり)の彼女であって、維盛の彼女ではなかった。
維盛の苦しみ
「名門の家に生まれて、しかも長男として生まれて、しかも顔が美形ときたら完璧じゃないか!うらやましい!」
「うらやましすぎる!ずるい!俺と替わってくれ!」
そう言う人は多いだろう。
しかしこういう羨みが、まったく的外れであるのは維盛の人生を見れば分かる。
維盛は「いい家」に生まれたことで、あるいは「美男子」に生まれたことで、人生で得したことなど何もなかった。
それどころか、逆に平家に生まれたことで、みんなから石を投げつけられる人生を送ることになった。
美男子ということだって、女性にモテることには役には立たず、男性にモテることに役立ってしまって維盛にとってはちっとも嬉しくもないことだった。(実際、当時、維盛の周囲には男色傾向のある人は多く、男の人たちから迫られることもあったようだ。)
長男ということだって、「長男なんだから」と責任は押し付けられる一方で、そこまでの権限は与えられず、実際の戦の時には、力を持った叔父さんたちの声が大きくて、自分の声は通せなかった。この「声の大きい叔父さんたち」が軍の統一を乱して敗けに繫がることが多かったのに、敗けたら敗けたで、維盛のせいにされた。
「いい家」、「長男」、「美男子」。そんな、人が羨むような、本来なら「利点」とも思われる要素は、維盛の人生においてはまったく利点でなかったばかりでなく、むしろマイナスに作用した。
「驕る平家は久しからず」の嘘
私がなんでこんな話を書こうと思ったか。
なぜ平維盛という人に関心を持ち、書こうと思ったのか。
それは、「驕る平家は久しからず」という、あの有名な言葉に以前からずっと違和感を持っていたからだ。いや、違和感というより反撥を抱いていた。
この言葉は、「驕った態度をとっているといつか痛い目に遭う」という傲慢な人生を送ることへの戒めの言葉として使われる。
「平家は、あんなに尊大な態度で振るまい傲慢な人生を送っていたから、人々の恨みを買って、ついにはこんな痛い目を見ることになったのだ。ざまあみろ。天罰だ」と人々は言う。
だが、驕っている人と罰を受けている人が別ではないか。
維盛がいつ驕った?
「でも、0代、10代の頃はいい暮らしをしていたでしょう?」と言うかもしれない。
たしかに維盛は、子ども時代、普通の子よりもいい服を着て、おいしいものを食べていたかもしれない。しかしそれは「裕福な育ち」ということであって、「驕る」ということとは違う。
子どもの頃は、親によってそのような生活を“させられて”いるのであり、「驕る」というのは、二十歳になって金や権力を使える年齢になって自分の意思で行うことを「驕る」と言うのだ。
別に驕れなくてもいい。驕った生活をしてはいけないと言うなら、それはそれでいい。維盛はべつに驕りたかったわけではない。質素な生活でもよかった。
維盛の苦しみは「おじいちゃんやお父さんのように驕った暮らし、豪遊ができなかった」というところにあるのではない。
「驕る平家は久しからず」と、身に覚えのない言葉で源氏や世間から石を投げつけられたところにある。
驕っていたのは、お父さんやおじいちゃんや、ひいおじいちゃんの時代の話であって、維盛は身に覚えのないことだ。
お父さんは身に覚えがあっただろう。おじいちゃんはもっと十分に身に覚えがあっただろう。だが、そのおじいちゃんとお父さんは戦没ではなく病没したのだ。恨みを買った人たちから殺されたのではなく、寿命を全うして亡くなったのだ。おじいちゃんもお父さんも、あの都落ちから西へ西へと敗走した悲惨な日々を知らない。
「おまえのご先祖様を恨むんだな」などと言いながら、人々は維盛に向かって石を投げつけた。
驕りたいわけではない、と言ったが、こんな理不尽な目に遭うのなら、いっそ驕った暮らしをしておけばよかった。
女遊びもしなかった。
弱冠15歳の時に、父や祖父の意嚮で結婚させられた、ただ一人の妻を愛した。
18歳の青海波の舞のときは、そのあまりの美しさから「光源氏の再来」と皆から言われたが、その後の人生で源氏軍に苦しめられたことを思えば、敵の名前で褒められるなんて皮肉でしかなかった。「容貌が美しい」なんて、武将としての、男としての幸せや誉れとは何の関係もなかった。
妻や子供も守ってやれなかった。最後の別れのとき、妻には「自分が亡くなったら再婚してくれ」とは言っておいたが。
「驕る平家は久しからず」。
平家物語の冒頭の言葉に由来するこの諺を人が口にするとき、私はあなたの言う「平家」とはいったい誰のことを言っているのか、と思う。
平家という家を構成しているのは一人一人の人だ。その一人一人に光を当ててみれば、時代の波の浮沈が大きく作用しているのが見えてくる。運命という名の人間が作り出した機構が作用しているのが見えてくる。そうしたものを無視して何かを語ることは自分がまた時代を形作ってる主体であるという責任意識の欠如を現している。
平維盛の生涯は、何度も何度も、時代について、運命について、人生について、私に考えさせる。
(※)この記事は、歴史的事実に関してはなるべく調べて正確性を心掛けて書くようにはしましたが、私の見方が多分に入っており、脚色されています。レポートを書いてる学生さんは「出典:暫定龍吟録」などとせず、もっとしっかりした文献、史料に当たってください。
私がこの文章を書くにあたって参考にしたのは以下の文献です。特に高橋昌明氏の『平家の群像』は大いに参考にしています。
- 高橋昌明『平家の群像』(岩波新書)
- 石母田正『平家物語』(岩波新書)
- 『新日本古典文学大系・平家物語』(岩波書店)
(※2015/04/03)重衡の名前を間違っていたのを訂正しました。あゝ、本当にややこしい。
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