暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

Don't google !

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 グーグルが嫌いだった。

 「ググらない」生活を送ってきた。

 今でも。

 グーグルが齎した罪について考えたい。


誕生当初から評判がよかったグーグル

 今の若い人たちは知らないかもしれないが、グーグルというのは徐々に評判が良くなっていったのではない。登場した時からいきなり評判が良かった。
 昔はダイヤルアップ接続と言って、インターネットへの接続は非常に細く遅かった。一枚のウェブページが表示されるのに何分もかかった。そんなとき、情報量が多くて読み込みに時間がかかる画像を多用しているヤフーより、トップページにロゴと検索窓しかないシンプルなグーグルは、それだけ素早く表示された。
 検索サイトにアクセスする時は、すぐに何か調べたいことがある時なので、このちょっとした「速さ」を人々は喜んだ。

 その後、グーグルは成長と拡大を続けた。
 AltaVista、Lycos、Infoseek、gooを駆逐した。一時、評判になったAsk.jp、Technorati、MARSFLAG、Bingさえグーグルの敵ではなかった。そしてヤフーを追い抜いた。

 ヤフーにグーグルの検索エンジンが採用されていることを考えれば、今や検索の世界はほぼグーグルに支配されていると言っても過言ではない。


「知」の在り方を変えた暴力的な検索

 インターネット初期の頃、私はグーグルよりヤフーの方が好きだった。
 ヤフーは「ディレクトリ検索」と言って、検索の仕組みに人力が入っていた。
 だがそのうち、爆発的に増えるウェブページの整理が追いつかなくなり、人力を排したグーグル式の検索エンジンが流行するようになった。

 私がグーグルに対して最初に抱いた印象は「ずるい」だった。

 すべてを横断的に検索してぶっこ抜く。

 私にはこれは“本来の”順番を無視しているように感じられた。

 例えば「ウィキペディア」というサイトを知っていて、そのウィキペディアのページでサイト内検索をかけるのとは違う。
 サイト内検索は、まだサイトに辿り着いてからの行為だから、それは“順序に適っている”というか、“行儀がいい”行為に思えた。

 だが、グーグルは違う。検索ワードからもっと直接的に答えに辿り着く。ウィキペディアという便利なサイトを知ってる必要すらない。

 しかも、精度がいいので、最も欲しかった答えにダイレクトに辿り着く。誰でも検索窓に好きな言葉を入れるだけ。ウェブサイトに関する予備知識は必要ない。必要な知識は「ググり方」に関する知識だけだ。


グーグルが葬り去ったもの

 グーグルが葬り去ったもの、それは例えば「知識」だ。

 「もの知り」とか、該博な知識を持った人への敬意とか。

 グーグルが登場してから、知識を自分の頭の中に入れておく必要はなくなった。必要なときにその都度ググればいいからだ。

 今の時代には、例えば「漢字博士」はいない。漢字に詳しい人はいるだろうが、その知識は永遠に役立たない。
 今の人は分からない漢字があったら、隣の漢字に詳しい人に聞くのではなく、目の前のパソコン、ネットに聞く。
 上司、先輩からもそのように教えられる。
 「先ずはググろうよ。それでも分からなかったら聞きにおいで」

 せっかく隣の席に漢字に詳しい人がいるのに、その知識が活かされることはなくなった。それどころか、現代人は隣の席の人が漢字に詳しいということすら知ることはないだろう。

 現代の人々に尊敬されているのは、隣の漢字博士ではなく、カリフォルニアのグーグル先生である。


グーグルによって人間は「馬鹿」になる

 グーグルが葬ったものは知識だけではない。記憶もまた不要になった。

 あらゆることはログとして記録されているので、それらを自分の頭の中に記憶させておく必要はなく、必要なときに検索して引っ張ってくればいいだけになった。

 ところで先日、こんな記事を見かけた。

ネット検索は「自分は賢い」と錯覚させる 米研究 - ITmedia ニュース

 ネットによる情報検索は、実際以上に自分が賢いと錯覚させる──米国の研究者によるこんな研究結果が米心理学会の専門誌に掲載された。検索ユーザーはネット上の知識と自分の知識を混同してしまう傾向があり、研究者は「正確な知識を身につけるのは難しいことだが、ネットはそれをさらに困難にしている」という。

 ある実験では、対象者をネット検索を使ってもいいグループとそうではないグループに分け、「ジッパーはどういう仕組み?」といった4つの質問に答えてもらった。その上で、4つの質問とは無関係な別の質問(「曇りの夜はなぜ暖かい?」など)を示したところ、ネット検索を使ってもいいグループは、そうではないグループに比べ「自分はその質問に答える能力がある」と考える傾向にあったという。

 検索を使えるグループは、正確な回答が見つからないようなとても難しい質問や、Googleのフィルターによって回答が見つからないようになっている質問を検索した場合でさえ、自分の知識は十分にあると感じる傾向にあった。「“検索モード”時の認知作用はとても強力で、検索で何も見つからなかった時でさえ、人々は自分を賢く感じているようだ」と研究者は述べている。 



 今はこの実験の信頼性については語らない。

 私が気になるのは、このような記事を読んでもなお、
「でも、その『まず検索する』ということすらしない馬鹿がいるのが問題なんだよ」
と言う人が多いことだ。

 それぐらい現代では「先ずググる」、「先ず検索して自分で調べる」というのが常識になっている。

 ググった結果の一番目にヤフー知恵袋が出てきて、回答者が「すぐに聞かないで先ずは自分で調べる努力をしましょう」だとか「◯◯_△△でググったらいっぱい出てきますよ」などと言っていてガッカリした経験のある人も多いのではないだろうか。ググった結果、そこのページに辿り着いているのに…。


ググるカス

 私は、すぐに「ググレカス」と言う人のことを、内心密かに「ググるカス」と呼んでいる。

 「ググレカス」と言う人は、どんなことでもグーグルで答えが出て来ると思っている。
 「自分が思いつくようなことは大抵、誰かが同じような疑問を持ってどこかに書いているはずだから、ググればわかるんですよ」と言う。

 ググる人たちは所詮そのレベルなのだ。世界の誰かしらが思いついたり考えたりした、その後追いの範囲内でしか生きていないのだ。

 誰も考えていないことは、ググっても出てこない。答えはウェブ上では見つからない。

 それでも「ググるカス」たちは、それはググり方が下手なのだ、と思っている。
 「AND検索やOR検索は使ってみた?英語でググってみた?」と言う。

 テクニックの問題だと思っている。テクニックとグーグルに対する過信がある。


“宝”を見落とすグーグル

 グーグルは確かに、その“優秀な”評価の仕組みで、有用なウェブサイトやウェブページを目立つところに引き上げて来た。

 「ページランク」をコアとするその評価手法は、たしかに優れた一面があった。これによって、人々はまったく役に立たない、あるいは中身の無いサイトを見なくて済むようになった。

 だがグーグルは「宝」を見落とす。

 どんなに素晴らしい内容のページでも、被リンクがないページをグーグルは見つけられない。

 グーグルは、素晴らしい内容のページは必ず誰かに見つけられ、リンクされ、さらにリンクがリンクを呼んでランクが高まっていく、と考えている。

 しかし、その最初の「リンク」を張るのは人間だ。人間が中身を読んで、このページには素晴らしいことが書いてある、と判断して初めてリンクができる。

 ところで、ウェブの世界には「グーグルの検索結果に出てこないウェブページはこの世に存在していないも同じ」という言葉がある。
 ちゃんとURLがあってウェブ上には存在していても、グーグルの検索結果に出てこないのでは、誰の目にも留まることがないから存在していないも同然、という意味だ。

 すると次のような問題が出て来る。
 とある素晴らしい中身が書かれたウェブページがあったとしよう。
 しかし、

 誰からもリンクされていないのでグーグルが拾えない。
  ↓
 グーグルの検索結果に出てこないので誰もそのページの存在を知らない。
  ↓
 誰も見たことがないので、そのページの中身を良いとも悪いとも評価できない。
  ↓
 誰もリンクしない。
  ↓
 誰からもリンクされていないのでグーグルが拾えない。

というループができる。

 グーグルの評価の仕組みには、このような欠点がある。埋もれた宝を見つけ出せないのだ。見つけ出せないどころか、グーグルの「活躍」がますます宝を埋没させることに繫がっている。
 被リンクがなくても、閲覧数が増えるとか、なんらかの動きがなければグーグルは拾えないのだ。


グーグルが掬い損ねたもの

 グーグルがその羂索(検索)に救い(掬い)そこねたもの、それは「端末にいないもの」だ。

 グーグルはウェブ検索だけに力を入れてきたのではない。ソーシャルネットワークにも力を入れてきた。古くはOrkut、今はGoogle+を柱に据えている。ソーシャルネットワークを活用して社会を良くしていこう、という動きもある。

 だが私は、グーグルのウェブ検索にしろソーシャルネットワークにしろ、その根本の仕組みは大きく変わらないような気がする。ウェブページを点(ノード)にしていたものを「人」に置き換えただけのように思える。

 グーグルはウェブに乗っかって、ハイパーリンクという架橋の仕事を続けてきたが、その橋(はし)の末(すえ)にいないもの、端末にいないものは、結局のところ掬え(救え)ない。
 それはウェブページだろうが人だろうが同じことなのだ。

 グーグルは広大なウェブの世界を整理し、ウェブを使いやすいものにした。これはグーグルの功績だ。
 一方、グーグルのページランクを代表とする検索の評価の仕組みは、強いものをより強く、弱いものをより弱くすることに貢献した。これはグーグルの罪だ。
 弱い紐帯であれ、繫がっているものはまだいい。まったくどこにも繫がっていない「孤立したもの」は、グーグルの仕組みでは救われない。


ウェブの終焉とグーグル

 数年前から「ウェブの終焉」が囁かれるようになった。たしかに「アプリインターネット」の隆盛などを見ていると、そんな気がしないでもないが、この先、ウェブが終焉するのかどうか私にはわからない。
 しかしウェブが終焉したとしてもグーグルは、あるいはグーグルに似た何かは生き残るだろう。ウェブが過去のアーカイヴのような保管庫のような場所になったとしても、そこを覗くための道具としてやっぱり人々はグーグルを必要とするだろう。


脱グーグルの生き方のすすめ

 自らの知識も記憶も、そして行動ログに至る人生のすべてをグーグルに預けて生きる生き方は悲しい。

 「ググるカス」たちが馬鹿になっていく様は、鍋で茹でられる蟹に似ている。最初は水だから冷たくて快適だ。だが少しづつ誤魔化されて慣らされていく。それは徐々に進行するので水温が上がっていることには気づかない。熱湯だと気づいたときには、もう手遅れだ。

 憶えるべきことは自分の頭の中に記憶しよう。知っておくべきことは自分の頭のなかに蓄えよう。

 外部に預けていると、あなたの大切な想い出は勝手に作り変えられる。あなたはそのことに気付けない。あなたは作られた幸せな想い出に包まれながら熱湯の中で死んでいく。

 今のうちから「脱グーグル化」の訓練をしておいた方がいい。

 やがて「ブレインコンピューティング」の時代が来たときに、グーグルに飼い馴らされている人たちは真っ先に脳をハックされるだろう。


 ググらない生活はたしかに不便だ。ググることに慣れてしまっている人たちにとってはなおさらだろう。
 だが、不便もまたいいものだよ、と私は言いたい。


 私はググらない。

 今までも。そしてこれからも。

 
 Don’t google.

 エリック・シュミットGoogle会長、60歳還暦の誕生日の日に。


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