暫定龍吟録

反便利、反インターネット的 This blog has not been updated since 2017

大聖堂落書き事件にみる心理

 最近、イタリア・フィレンツェの大聖堂に日本人の大学生が落書きをしてゐた、といふニュースが話題になつた。

 私は、この事件の詳しいことを知らない。どの程度悪質な落書きだつたのかわからない。落書きは、大きく書いたのか小さく書いたのか。たくさん書いたのか少し書いたのか。目立つところに書いたのか目立たないところに書いたのか。簡単に消せるもので書いたのか簡単には消せないもので書いたのか。かうした程度によつて、悪質度合ひも変はつてくる。

 一説によると、その大聖堂にはたくさんの落書きがあつたさうだ。割れ窓理論を引用するまでもなく、もしそこにたくさんの落書きが放置されてゐたら、「自分も記念カキコして行かう」といふ気持ちになる者もゐるかもしれない。

 もつとも、だからと言つて、落書きが許されてよいといふことにはならない。今回の大学生がした行為を擁護するつもりはないし、私も落書きは大嫌ひだ。

 だが、今回の事件に対する日本の世間の反応が気になる。
 「日本の恥だ!」と言ふのは、まあ分かる。
 「もう一度イタリアまで行つて土下座して来い!」と言ふのは少し言ひすぎかと思ふが、まあ正義を思ふ憤りの心から出た言葉なのだらう。しかし、
 「学生の謝罪旅行にマスコミも同行すればいいのに」と言つた者がゐたが、これはいたゞけない。これは、「このバカな若者をみんなで見世物にして晒し者にしよう」といふ魂胆である。
 かういふ群集心理はおそろしく、殊に戒めなければならない。ネット上で時々起こるブログの「炎上」といふやつも同じ心理から起きる。

 これらの学生は、すでに謝罪文を書かされたり、停学になつたり、それなりの罰を受けてゐる。人間誰しも過ちを犯すことがある。それを本人が二度と立ち直れないほどに完膚無きまでに「群集」の力が袋叩きにするのはよくない。
 人は誰でもいつでも、この学生の立場になる可能性がある、といふことを想像しなければいけない。「自分は絶対落書きなんかしない」と思つてる人でも、他のどんなことで急に世間の批判の矢面に立たされるか分からない。その時、初めて、「群集」の袋叩きの恐ろしさに気づくかもしれない。

 ところで、この大学生たちは、落書きに自分の名前も書き、さらにご丁寧なことに所属する大学名まで書いてゐたといふ。
 ネット上で匿名で落書きのやうな中傷、嘲笑コメントを書き込んでゐる輩より、よほど潔いのではないか。