暫定龍吟録

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要領がいいということ

 最近、要領の良し悪しについて考へさせられる。
 「要領」とは、「要領がいい」とは何なのか。

 自分は要領が悪いなぁと思う-(はてな匿名ダイアリー2009/03/14)

 自他共に認める「天才的に」要領の悪い私は、上記のはてな匿名氏の記事を興味深く読んだ。

 一体、「要領」とは何なのか?
 『明鏡国語辞典』には、かうある。

【要領】②物事の要点を心得た、じょうずな処理の仕方。


 要するに、要領とは処理の仕方のことなのだ。たゞそれだけのことだ。しかし、それだけのことが人生を大きく左右する。

 私が小学1年のころ、アイススケート教室に通つてゐたとき、先生が小さな円周を設定して「こゝを20周しなさい。それが終はつたら次のステップに進みなさい」といふ指示を出した。子どもたちは銘々のスピードで滑り出し、早く滑り終はつた子から一抜け、二抜け、三抜けして次のステップに移つて行つた。どんどん抜けていくと残された子たちは遅れることに対する不安があるのか、周回数をごまかして、つまり16周か17周でやめて次のステップへと我も我もと移つて行つた。私はつひに最後まで一人円周に残り、「じふしち~、じふはち~、じふく~、にじふ~」と周回数をごまかすことなく、くそ真面目に最後まで滑りきつた。それをリンクの外で見てゐた私の親は「うちの子はなんて要領が悪いんだ」と愕然としたさうである。
 たしかに、さう。どの子が何周したかなんて先生が一人一人のを数へてゐるわけではない。少しの周回数ぐらゐはごまかしてちやんと皆の動きについていくことが大事であり、それがその場における「上手なやり方」だつたのだらう。

 「要領がいい」といふ言葉は、辞書には「非難の気持ちを込めて使ふ」と書いてあるが、自分で「私は要領がいいんだ」といふ人に何人も会つたことがあるから、必ずしも否定的な意味合ひでばかり使はれるわけではないだらう。

 現代は、要領のいい人間がとにかく楽をし、要領の悪い人間はとことん苦労をする時代なんだと思ふ。
 世の中は要領で決まるわけではないが、人生の苦楽は要領で決まると言つても過言ではない。

 上記はてな記事の中に次のやうな言葉がある。

自分の身近な人たちが要領よくやっている事が透けて見えてしまうとなんかがっかりする。
上手くやっている事に対する一種の妬みなんだろうね。


 それに対して、自分の心に正直に生きてゐれば他人を妬まなくても済む、といつた回答も寄せられてゐる。

 しかし、要領が悪いといふことは、他人に対する嫉妬心といつた簡単な問題だけで済むものではない。要領が悪いといふだけで、その人の人生には大きな苦しみがのしかゝるのだ。
 人生にはさまざまなハードルが用意されてゐる。その大小のハードルを要領のいい人たちは難なくクリアしていく。だが要領の悪い人はいちいちそのハードルに躓き、苦しむ。要領のいい人にとつては何でもないやうなことに一回一回突つかゝてしまふ。
 また、要領がいい人たちは大抵、要領が悪い人を見てゐるとイライラする。そしてそのイライラをぶつけてくる。私たち要領が悪い人間は、要領が悪いといふことでいろいろ損をしてゐるといふだけでなく、それに加へて、要領のいい人間たちから絶えず怒られ、罵倒され、馬鹿にされ続けなければならない苦しみがある。
 「もつと要領がよかつたらなあ」といふ言葉は、他人に対する妬みからではなく、さういふ苦しみから逃れたいがための言葉だ。

 要領が悪い人は当然のことながら仕事の要領も悪い。
 それに対して、「要領だけぢやなく、経験もあるんぢやないかな」と言ふ人がゐる。だが、経験は要領に及ばない。30歳の社員と20歳の新入社員。10年の経験の長がある要領の悪い30歳よりも未経験の要領のいい20歳のはうが、おそらく仕事はできるだらう。
 「仕事ができるといふことには、コツもあるんぢやないかな」と言ふ人もゐる。だが、コツは要領の中に含まれる。

【要領】②物事をうまく処理する手順やこつ。(『広辞苑』)

要領がいい人がすばやくコツを掴むのであり、要領が悪い人間はコツだつて掴めない。もちろん、地道に努力すれば要領のいい人より仕事ができるやうになるわけでもない。(仕事の職種にもよるが)。
 結局、要領(がいい)といふことは、経験やコツや努力よりも上位に来るものなのだ。
 そして、その要領のよさは後天的に得られたものではなく先天的に得られた、つまり生まれつきのものなのだ。
 要領は「理解力」である。それが本当の理解であるかどうかは別にして、一瞬にして物事の要点を“とりあへず”捉へる力である。
 要領はまた、「臨機応変力」でもある。「勘がいい」とか「機転が利く」といつたこともすべて同じである。その場その場での一瞬の判断が求められる。前もつての準備など役に立たない。生まれ持つた能力だけが成否を左右する。

 だがしかし、私はこゝで立ち止まつて考へる。
 私は小学1年のあの時、周回数をごまかして皆について行くべきだつたのだらうか。
 物事は「上手に処理する」だけでいいのだらうか。人生に立ちはだかるさまざまな困難を「巧みに処理する」。それだけなら、機械やコンピューターの得意分野だ。現代の人類が何でも機械に持つていかれてしまつてゐるのは、「巧みに処理する」ことばかりに重点を置いてるからではないか。
 より良い人生、豊かな人生といつたことを考へるとき、「上手な処理の仕方」を尊ぶのは少し違ふ気がする。「上手な処理の仕方」は所詮、仕方、技術・方法である。そこには品や精神といつたものは感じられない。
 私たちはどんな時も“とりあへず”こなせばいいのではないはずだ。例へば困難に出あつたときは、立ち止まつてその意味を考へることも重要なはずだ。何でもクリアすればいいといふわけではない。より良い生き方といふものを考へるならば、人生には品も重要だし、精神だつて大切だ。それらを大切にする過程で「上手に処理する」ことができないことがあつても、それは大いに認められるべきことではないのか。

 人生を決定づける要素として要領の良し悪しの占める割合は大きい。しかし、要領だけではない人生の価値に世間は気付かなければいけない。