暫定龍吟録

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のび太はいかにして生きていくべきか

 のび太はいかにして生きていくべきか。
 最近、よく考へる問題だ。

 一人の人間の人生を左右するものは努力か天稟か。
 その二つで言ふならば、それは天稟だらう、と思ふ。
 幸田露伴の言を俟つまでもなく努力はたしかに大事だ。がしかし、ある程度の努力は誰でもやつてゐる。のび太だつて努力はしてゐる。
 だがその努力は報はれることがない。のび太の努力はせいぜい頑張つてみても、すべて裏目に出るだけだ。

 のび太は圧倒的に無能である。何の才能も特技もない。
 漫画の中ではドラえもんといふ存在がのび太を助けてくれるけれども、現実社会にはドラえもんはゐない。
 のび太はどうやつて生きていけばいいのか。

 現代の日本社会は、のび太のやうな人間が生きていきにくい社会だ。能力主義や能力ばかりを尊重する風潮が蔓延り、のび太のやうな無能な人間は生きる資格すらない、といふ扱ひをされる。
 のび太は障害者ではない、とされる。目が見えないわけでも、耳が聞こえないわけでも、知能障害でも手足が不自由なわけでもない。でも、のび太のやうに、運動もダメ、勉強もダメ、何をやつてもダメダメダメといふのは、もうほとんど「障害」ではないのか。のび太が障害者扱ひされないのはをかしいのであつて、のび太はこの世を生きていくのにあまりにも多くの障害を持つて(と言ふよりあまりに多くの能力が欠落して)生まれてきた、と言へるのではないか。
 中でも重要なのは要領の良さだ。のび太の最大の欠点は要領が悪すぎるといふところだ。これがほとんど致命的で、このためにのび太はこの現代社会で生きていくことが難しくなつてゐる。

 そして、かういつた能力の大体は、後天的に得られるものではなく、先天的なもの、つまり持つて生まれたものだ。のび太はそれらを持つて生まれて来なかつた、といふ時点ですでに不運な生まれなのだ。
 不運にもこのやうに無能にしてこの世に生まれ落ちて来てしまつたのび太は、一体どうすればいいのか。
 「努力しろ」はダメだ。のび太だつてのび太なりに努力してゐるのだから。それなのに何一つ良い結果を得られないのだから。

 のび太が生きていけない社会に問題があるのだ、と思ふ。のび太のやうな人間を許さない社会。身に覚えがないだらうか。クラスで会社で、一つの目標に向かつて皆一丸となつて取り組んでゐるときに、のび太のやうな人間がゐることに対してイライラした経験がないだらうか。
 しかし、のび太は、それを責められてもしかたないのである。能力は生まれつき持つてゐないのだから、無能を責められてもしやうがない。

 無能を責めてはいけない。努力不足や非礼や態度を責めるのはわかる。でも、無能は責めてはいけないのだ。それはどうしようもない問題だから。
 気をつけなければいけないのは、本人の努力不足と思はれてゐる問題でも、案外生まれつきの能力の問題であつたりする場合が多いことだ。
 勝ち組とか成功者とかトップランナーといふのは「たくさん努力した人」ではなく、「能力と機会に恵まれた幸運な人」のことである。

 のび太が生きていけない現代社会とは何なのだらう。現代社会の論理でいくならば、のび太は生きる資格がないどころか、生きてゐるのが無駄、生きてゐるのが邪魔である。こんな役立たずは死ぬしかないといふことになる。

 切に願ふ。のび太が生きていける社会を、私たちは作つていかなければいけない。ドラえもんに頼ることなしに。これは、現代に生きる日本の、世界の無数ののび太たちに関はる大きな問題なのだ。